「この事件は、私の指示に従えと言ったはずだ」
 冷酷な眼差しが向けられ、夢子はぶるりと身を震わせた。
「そうですが……」
「言い訳は求めていない。なぜ従わなかったのかだけを述べろ」
 眉一つ動かさず、ナカテガワは夢子を詰める。
 肩に手を置かれた時、夢子は捕まってしまった気分でいた。事実、すでに彼女に逃げ道など無いのだが。
「アキラが……アキラがいたんです」
「アキラが? どこに」
「……例の場所です。誰の指示なのかわかりませんが……しかし、彼が自然とあそこに辿り着くはずがありません」
 やっと意見を述べることができた夢子は、自信を得て「凶犯課の指示でもないと思いますし」と付け加えた。
 だが、ナカテガワの声は再び凍ってしまう。
「それで私の指示に従わなかったと」
 その視線には、頷くことさえも夢子には憚られた。そこから一体どのような展開をナカテガワが繰り広げるのか、全く分からなかったからだ。
「……アキラの動向を注意しておけ。今度何かあれば、お前をアキラのところへ向かわせる」
「は、はい」
 すぐの刑罰が下されないことに、夢子はひとまず胸を撫で下ろす。部屋を出ようとすれば、ナカテガワが「夢子」と彼女の名前を呼んだ。
「何でしょうか」夢子は振り向く。
 彼女は名前で呼ばれたことにわざと気付かないふりをして、仕事用の態度を選択したはずだった。しかし、ナカテガワは距離を詰めると遠慮なく彼女の頬へと手を伸ばす。
夢子?」
「は、はい……」
 ほんのりと持ち上げられた口角に呼応するように彼の声音までもが柔らくなってしまえば、夢子も心を許す。
 ナカテガワの手が、夢子の髪を撫でる。そのまま輪郭をなぞり、硬直した頬にそっと触れた。添えられた左手の親指が、乾いた唇の感触を確かめる。徹夜続きの夢子の唇には、赤は残っていなかった。
 夢子はドキドキとしながらナカテガワの手に翻弄されていたが、目の前の瞳が徐々に慈愛に満たされていくのを見て体の力が抜けていった。一緒になって、微笑んでしまう。
「すまない、本当は夢子に苦労などは掛けたくないのだが……」
「いいんです、私が望んでいることなんですから。……ナカテガワさんのために」
 そのまま、ゆっくりとふたりの顔が重なった。
「ん……」
 甘い一時に浸っていると、無慈悲にも扉がノックされる。夢子はびくりとして体を離そうとするが、ナカテガワは彼女の腰へと回していた手に力を入れる。
「ん、だ、ダメです。バレてしまいますから」
「バレて何が悪い? 罪になるような材料はどこにもない」
「で、ですけど」
 慌てる夢子をからかうだけからかってナカテガワは腰から手を放し、来訪者を迎えることにした。その間、夢子は偶然そこにいた部下を装って、話を聞いていないふりをしていた。

 来訪者が部屋から出れば、夢子は拗ねたように言う。
アキラには、あんな態度なんですね」
「そういえば、ああいうのが好みだったか」
「わかっているなら、どうしていつもそうしてくれないんです」
 ナカテガワは笑った。「夢子の顔には“もっと意地悪してほしい”と書いてあるからな」
「書いてませんそんなこと! 大体、何でもナカテガワさんの都合よく捉えすぎなんです。いつも私ばかり振り回されている気がして……」
 ナカテガワは、夢子の顔をじっと見ていた。それは冷めた表情をしていたが、夢子の瞳にきらめくものを見つけると口角を上げる。突然聞こえたフフッと笑う声に、夢子は顔を上げる。
「ナカテガワさ――」
「本当にそう思っているんですか?」
「え?」
「私だけが振り回していると」
 夢子はおずおずと頷いた。不思議そうな顔の彼女を見て、ナカテガワは微笑む。
「私も、夢子さんに振り回されていますよ」
 もちろん仕事でも、と付け加えると、途端に夢子の顔がパッと明るくなる。夢子はナカテガワに微笑みかけた。
「うそ。全然そんなふうに見えませんよ、いつも余裕たっぷりで……でも、そんなところが好きです」
 距離を詰めると、夢子はナカテガワを抱きしめる。
夢子……」
「私、頑張ります。この任務だってちゃんと遂行させます」
 ナカテガワは夢子の頭を撫でることでその言葉に応えた。
「だから……その、全てが終わった時にはご褒美をください」
「ご褒美?」
 夢子はもごもごとしてから、照れたように頷いた。
「……どんなご褒美がほしい」
 ナカテガワの指が夢子の輪郭をくすぐる。
「やさしく、してください」
 夢子の声は、どこか震えていた。そこからは、日頃彼女が抱える責任の大きさや、立ち向かう物事の大きさに対する自分の存在のちっぽけさへの不安を窺い知ることができた。この状況まで彼女の手を引いた者としての責任感す」と訴える。しかし、その表情はまんざらでもなさそうに紅潮していた。その様子を見て、ナカテガワは微笑む。
「これじゃ、夢子さんの方が“ご褒美”に耐えられないかもしれませんね」
 近づいたナカテガワの顔を、夢子は素直に受け入れた。唇が離れた後、夢子は恍惚のまま問う。
「耐えられなかったら……どうなるんです」
「さあ、どうしましょうかね」
「いじわる」
「どうとでも。……そろそろ、会議の時間ですよ」
「そうでした!」
 すっかり夢から醒めたようである。夢子は気持ち身なりを整えると、ナカテガワに向き合って頭を下げた。
「それでは、失礼します」
 部屋から出ていった夢子の後ろ姿を見て、ナカテガワはふと思う。彼女を手中に収めるのもそう時間はかからなかったな、と。


2025/8/10