「
夢子、まだ吹っ切れてないの?」
頭上から降ってきたチヅルの声に、
夢子は少々苛立ちを滲ませながら返した。
「……そんなにすぐ心が変わるわけないでしょ」
先日の合コンを惨敗で終えた
夢子は、苦い顔をして紙コップのコーヒーを啜る。その表情にはこれ以上話しかけて欲しくない意が存分に表れていたが、蝶よ花よと育てられたチヅルには人の細かな態度の変化というものは関係ない。
夢子がどうしてそこまで渋い顔をしているのか気になったので、素直に訊いただけに過ぎなかった。
だが、合コンの残念な結果を無理にでも忘れてしまおうとしていた
夢子からすれば、傷口をぐちぐちといじられたにも等しい。いくら事実だとしても、その無遠慮な掘り返しは時に人の心にダメージを与えてしまう。一層仕事に精を出して誤魔化していた
夢子だったが、チヅルの一言をきっかけにポーカーフェイスを保つことができなくなり、ついには苛立ちを表に出してしまったのだった。
「それより、チヅルはまだあの冴えないオッサンと続いてるわけ」
目も合わせずにそう言い捨てて、口に当てた紙コップを傾ける。
夢子の口調は強いものだったが、彼女とチヅルはこれしきのことで仲違いするような関係性ではない。24署内で気を張り巡らせる二人からすれば通常運転にも等しく、相手にちょっかいをかけるような言葉こそ、“少し一緒にいてほしい”という気持ちの表れでもあった。ややこしい友人関係ではあるが、二人にはこれが丁度良かった。
「人様の恋人に対してそんな風に言うものじゃないでしょう。
夢子には分からない魅力があるの」
「だったら、チヅルにだって私の気持ちが分かるはずないでしょ」
夢子の言う通り、恋人のいるチヅルに、彼氏ができないことに対する終わりのない焦りが分かるはずもない。同じキャンパスで過ごし、それから課は違えど同じ24署で働く二人は、途中までは、恋人ができないだの仕事が大変だの、愚痴を言い合いながら飲むのが習慣だった。それなのに、いつの間にかチヅルは年上(それもかなり)の恋人ができており、付き合いが少々悪くなった。そのことで
夢子とチヅルの仲が悪くなったわけではないが、こんな歳に、恋愛話のできる相手を失うというのはかなりの痛手だ。
「まあ、遊ばれるだけ遊ばれるなんてことがないようにね」
「余計なお世話よ」
何を言っても負け犬の遠吠えのように思えてくるのが妙に情けなくて、悔しくて、
夢子は何か決定的な一打をお見舞いしなければ気分が晴れないような気がしていた。しかし、今の自分には、何かチヅルの感情を揺るがすような、そんな武器はない。
すると、チヅルが非常に興味深い言葉を発した。
「せっかく、私が手回ししてあげようと思ったのに」
「何それ」
「興味あるの?」
「……話は聞いてあげてもいいわ」
「さすが期待の
夢野捜査官。上からね」
「いいから、ほら、どういう手回しをしてくれるつもりなの」
チヅルのわざとらしい
よいしょをスルーし、
夢子はさらなる情報を求めた。
「今度、ちょっと彼と抜け出したい時があるの。その時に手伝ってくれるなら、
夢子にいい男の人を紹介してあげようかと思って」
「ふうん」
「あら、乗り気じゃないのね」
「だって……また同じような目に遭うのは見えてるし」
「
夢子らしくないんじゃないの、そんな弱気になって」
どうにか乗り気になってほしいチヅルは、まるで商品を売り込むかのように魅力的な言葉を並べる。
「イケメン……で、お金持ちで、スタイルが良くて、頭が切れる男の人でも?」
あまりにも
夢子の反応がなかったので、やはりこの案はダメかと諦めたチヅルだったが、
夢子は静かに目を輝かせていた。
「……それ、本当?」
「私が嘘をついたことある?」
「ない、無いけどさ! あまりにも好条件すぎて、ほら、なんか怖いのよ」
ここまでくれば、後は勢いに乗って押してしまうだけだ。
「付け加えると、どうやら
夢子のことが気になってるらしいの。実は、その人から
夢子と食事の機会をセッティングしてほしいって言われてるのよ」
「え! それって……ほんと !? 」
嬉しさのあまり
夢子はチヅルの肩を掴み、グラグラと揺さぶる。
「あーもう、チヅル様! 本当にありがとうございます!」
「そういうのはいいから、そっちこそちゃんと約束守ってよ」
「もちろん!」
先程まで暗い面持ちをしていたのが信じられないほど明るくなった
夢子の表情。その様子を見て、チヅルはホッとしたとともに、多少の罪悪感を抱いていた。
“あなたのことが気になっている男の人だっていうのは本当だけど、あなたが
嫌というほど知っている男の人でもあるのよ”
……その言葉を付け加えなかったことを、チヅルは少々悪く思ったが、どうしようもないことだった。まあどうにかなるでしょう、と持ち前の細かいところは気にしない性格で、そのささやかな杞憂もうやむやになってしまった。
***
その日の
夢子は、どこか上機嫌だった。同僚に「何かあったのか?」と訊かれても「何も」と普段通りの愛想で答える彼女ではあったが、その顔は無意識のうちに緩んでおり、何かあった、あるいはこれから何かあるのだと想像するのは当然だった。
片付いた事件の資料をまとめながら、
夢子は今日のディナーについて想像を膨らませる――チヅルの話によれば、相手の男の人は同じく24署内で働く人で、仕事終わりにすぐに
夢子の部署まで迎えに来てくれるという。そういうところも何だか素敵だと思ってしまえば、なおさら顔が緩み、ついにはひとりでに微笑んでしまいそうだった。向かいのデスクに座る同僚からの怪訝な目に気付き、
夢子は慌てて口元を資料で隠す。それからわざとらしく咳払いをして、いかにも仕事一筋ですといった感じに、それまでの興奮を抑えこめて冷静な表情に戻ってみせた。
そこからはひとまず仕事に打ち込んだ
夢子だが、その服装からも彼女が今日という日のために気合いを入れてきていることは丸わかりだった。スーツとは言っても、仕事に支障をきたさない程度にオシャレなデザインのものにしてきたし、化粧も仕事用というよりデート用の可愛らしい感じ。そしてヘアアレンジもやわらかな女性的な印象を持たれるようなものにしてきた。
今まで、仕事一筋感が漏れ出てしまっているからか、合コンだのお見合いまがいのデートだので上手くいくことがなかった。自分を変えてまで相手に気に入ってもらうというのは
夢子は気に入らなかったが、第一印象で良く思ってもらえてそれから関係を続けていけるならばそれに越したことはない。チヅルが教えてくれた特徴を思い浮かべるだけでもワクワクとしてしまうような素敵な男の人とディナーを共にするのだから、気合いを入れ過ぎて悪いということもないはずだ。
そんなこんなで、いつものお堅い
夢子の雰囲気とは一転した彼女の姿に、誰もが「今日は何かがあるんだな」と思うのは当然だった。
今日は何が何でも定時で帰らせてほしいと頼んでいる
夢子は、ついに短い針が5に届いたのを見て、疲れも忘れてしまった。午後5時ぴったりにやってきたら、それはそれでまるで仕事を適当に終わらせてきたような感じがして良くないけれど、だからといってあまり遅いとこの胸がもたない。チヅルは迎えに来てくれると言っていたが、そわそわとしてしまう
夢子は、まだ働く同僚のことも思うとひとまず部屋の外に出た方がよいと思った。
バッグを肩にかけ、「お疲れ様です」と挨拶をしていると、同僚から声を掛けられる。
「
夢野さん、お客さん」
そう言う同僚の顔はどこかにやにやとしていて、
夢子は自分が浮かれている理由をすっかり知られてしまったようで恥ずかしく思った。あるいは、その同僚のにやけが、“お客さん”があまりにもイケメンだったからという理由ならばいいと思った。それでも、「わかりました」と平常ぶって応えてみせて、心の中で自分に気合いを入れながらギュッとバッグの手持ち部分を握った。
部屋の外へと向かえば、何人かが廊下を忙しそうに歩いている。その中で動かずに壁際にすっと立っている人を見つけて、
夢子はより一層浮足立った。そして近づけば……
「あぁっ! あなたは!」
夢子がそう大きな声を上げてしまうのも当然だった。目の前に“あの”男がいたからだ。
あの男――
夢子からそう形容された人物は、凶悪犯罪一課のナカテガワモリチカである。
犯人の殺しを許可されているのは凶悪犯罪課(通称“凶犯課”)だけで、24署内でもやや浮いた存在である。加えて、そこに押し込められているのは癖のある人物ばかりで、とっつきにくいからと避けてしまうのが署内の人々の正直なところだった。
その中で、影の実力者として存在しているのがナカテガワである。公安出身、そして様々なコネクションを持つこと、よく切れる頭を持つことから、一部からは“参謀”とも呼ばれている。この頃積極的に導入されているデジタルを使った捜査にも肯定的であり、機械に明るいことも彼の強みだった。
そんな優秀な人物(あるいは“厄介”とも言える)が、どうして
夢子からうらめしい目を向けられる羽目になっているのかというと、それは彼の原因に行動がある――
夢子が24署で働くようになってからというもの、ナカテガワはもはやストーカーともいえるレベルで彼女に付きまとっているのだ。それは、彼女の主観に基づく表現ではあるかもしれないが、彼の行動が常識を逸しているのは事実だった。
しかし、問題は、彼のそのやり方である。何かにつけて
夢子を目指してやって来るものだから、周りの人は、ナカテガワの好意がダダ洩れであることに気付いていた。仕事のこととなれば切れ者となる彼ではあるが、好みの異性に対してはめっぽう弱いのだと、その姿を楽しんでいた人物もいた。
だが、周りの人々にはナカテガワのしつこいまでの様子は見えないので(そう見えないようにしているところにナカテガワの策が光っている)、鬱陶しがる
夢子とそれでも懲りないナカテガワのやり取りを微笑ましいと思う程度だった。ともすれば、彼の好意に応えてやらない
夢子がやや薄情だと評価されるまであり、彼女からすれば納得のいかないことだった。
人から好意を向けられること、あるいは人に好意を向けることは悪いことではない。嫌われるよりは、好かれる方がいいに決まっている。しかし、それには限度があるというもので、一度“気持ちが悪い”“怖い”と思ってしまった相手に、相変わらずの、あるいはさらに大きくなった好意を向けられては虫唾が走るというもの。相手の気持ちも顧みずにぐいぐいと関係を迫るナカテガワを、
夢子はどうも苦手に感じていた。
今も、いつも通りの余裕な態度で「どうも」と言うナカテガワが、
夢子の浮き上がった気持ちを沈ませた。
「どうも、じゃないですよ。何ですか、また私を待ち伏せしてたんですか」
「いいえ、約束してます」
まるで、そう言えと教え込まれていた子どものような口調でナカテガワは返した。
「奇遇ですね、残念ですけど私も約束してるんです」
そう言って、
夢子はあたりをきょろきょろと見渡す。
「ここらへんに、イケメンでお金持ってそうでスタイルがいい男の人、来ませんでした?」
「……何ですか、それ」
「何って、私、今日その人とディナーの約束してるんですよ」したり顔でそう言ってのける。「だから、ナカテガワさんのお相手をしている暇はないんです」
ナカテガワが一体どんな顔をしているのかと、
夢子が勝ち誇ったような顔で見てみれば、彼は演技でもなく本当に焦った表情をしていた。
「……おかしいですね。
夢野さんは、今日は私とディナーの予定では? ハチスカさんに話は通してもらったはずなのですが……」
……え?
夢子は数秒固まっていた。せわしなく人が歩き回る廊下とは対照的に、彼女だけ時間が止まってしまったかのように。そんな
夢子の様子を見て、ナカテガワは「大丈夫ですか?」と驚いたように声を掛けるが、彼女には聞こえていない。現実を受け入れたくない気持ちと、チヅルの言葉を検証することばかりで一杯一杯になっていたのだ。
上述したように、
夢子はナカテガワのことを、どちらかと言えば“嫌い”の方にラベリングしている。今までに受けた迷惑な行為&好意をチヅルにだけは酒の席で愚痴ってきたつもりだったのだが、まさかまさか、のこのこと彼との食事をセッティングしてくるとは……
夢子は今すぐにチヅルがいそうなところを片っ端から探し回り、胸倉を掴んで大声で問い詰めたかった。一体、どのようなつもりでいるのかと。
しかし、そんなことはナカテガワがさせなかった。「やっと、その気になってくれたんですね」とどこか上機嫌な彼が、ずいっと距離を縮めてきたからだ。その顔を見て
夢子は寒気がしたが、彼女の同僚が彼の顔を見れば、先程のお前の顔と同じだぞ、などと言ったことだろう。
「ハチスカさんは、モリカワさんとエスケープだそうですよ」
にやり、といった表情でそう言ったのを
夢子は見逃さなかった。……こいつ、全て分かっているな。分かっている上で、こんなことを……!
チヅルとその恋人のためだと、
夢子は約束通り彼女らが抜け出すための手助けをした。そして結果、
夢子は駆け込み先を失い、一人でこの巨悪(彼女から見れば)と立ち向かわなければならなくなっている。イケメン・金持ち・スタイル良し・頭が良い……これらのあまりに都合の良すぎる条件に盲目になってしまっていた自分を、
夢子は殴ってやりたくなった。
せめて、クーリングオフをさせてほしい。それがダメなら、無かったことにしてほしい……恨めしい目をしながらも、
夢子は改めてナカテガワを見た。
たしかに背は高くてスタイルは良く、ダブルのスーツを上手く着こなしている。凶犯課の捜査官として、切れ味鋭い思考力を存分に発揮し、数々の事件を解決しているというのはよく耳にする。そして、時には彼のことを「かっこいい」だの「タイプ」だのと話をしている女性を署内では見かけるし、イケメンではあるのだろう。身なりや態度から余裕があることは分かるし、仕事ぶりからすればそれなりにお金を持っているということは疑えない。
「いつもお綺麗ですが、今日はまた一段とお綺麗ですね」
……おまけに、女性を嬉しくさせるようなお世辞も言えるときた。決して、ぎこちないものではなく流れるようで、それでもって言い慣れているような安っぽさもない。
「仕事中にちらっと見に行きましたけど、男性の方々は少しそわそわしてましたね。誰かが
夢野さんを誘おうとしているんじゃないかと気が気じゃなかったのですが、それも全て私とのディナーのために着飾って下さったのだと思えばとても気分がいいものです」
決して、ナカテガワのことを想像しながら着飾ってきたのではなかったが、今日のディナーのために精一杯オシャレをしてきたのは事実なので、言い返すことはできない……と、まあ、そんなこんなで決してチヅルは嘘をついていないことを知ってしまえば、適当にいちゃもんをつけてしまうことはできないことを
夢子は知る。
それでも騙された気分を拭えない
夢子は、チズルが今頃恋人との時間を過ごしていることも気にせずに、今すぐに電話を掛けて取引不成立を申し立てようとした。が、それもそれで何だか虚しく……目の前でニコニコとしているナカテガワを、どうにも恨みたくなった。ひとつ息を吐くと、観念した
夢子は改めてナカテガワと向き合う。
「……わかりました。行きましょう、ディナー」
大抵の男女間であれば、こんなにも乗り気でないことがわかる女の返事はふたりの関係を壊しかねないのだが、このふたりの場合は違った。心にもないとしても、口にしてしまった時点で事実となり、約束となってしまうのだ。男の方も、つれないこの女をどうにか連れ出すことができれば、細かな部分などどうでも良かった。
***
レストランまではナカテガワの車で向かうことになった。もちろん、彼の運転で、だ。
地下駐車場までふたりは署内を歩くことになったのだが、傍から見れば、ナカテガワと
夢子がこれからデートにでも行くように思えたことだろう。ふたりのことを知っている人物が見れば、やっとくっついたのか、などと思ってもおかしくない。
だが、
夢子からすれば、我慢して嫌々ながら約束を遂行している、といったところでしかない。時々、好奇の目が向けられていることを感じながら、後日どうやって弁明しようかということだけを考えていた。それは、なかば諦めたというようなもので、つまりは……うまい話につられた自分への罰なのだと。
車をしばらく走らせてから、ナカテガワは口を開いた。
「いやあ、今まで頑張った甲斐がありましたよ」
何を?――そう、
夢子は訊き返したかったが、ここで言葉を返しては、この男の思う壺のような気がしていた。そんな言い方をされては、まるでこのまま関係がトントン拍子に進んで行くように聞こえてしまうし、そんなことは何があっても御免だ。
どうしてもそんな雰囲気に持っていきたくない
夢子は、ナカテガワの方を見ることもなく、夕日に染まる街並みから頑なに目を反らそうとはしなかった。そんな彼女の思惑もつゆ知らず、ナカテガワはどんどんと話を進めていこうとする。
「これまで、全く
夢野さんは振り向いてくれませんでしたし。……まあ、それもそれで楽しいんですがね」
「……」
「どうです? 今回のディナーを通してそこまで悪くないと思われたなら、これからも時折一緒にお食事をするというのは」
「…………」
「…………」
「…………」
「……きれいですよね、夕焼け」
どこのロマンチストか、と
夢子は思わず突っ込みたくなった。あまりにも無視しすぎるのは申し訳ないとは思っているが、それでもこのやり場のない気持ちを考えれば仕方のないことだと汲み取ってほしい。
夢子はドアの段差で頬杖をついて、完全にナカテガワを視界から消し去ってしまおうとした。
夕方の帰宅ラッシュに巻き込まれて、車が止まってしまう。ただでさえ居心地の悪い車内が、もっと居心地の悪いものになる。息がつまりそうだ――そう、
夢子が思っていれば。
「今回、
夢野さんの方が私との食事を望んでいるとお聞きしたもので――」
「だ、誰がそんなこと言ったんですか !? 」
驚きの言葉に
夢子が勢いよくナカテガワの方を見れば、ナカテガワの口元が弧を描く。
「やっとこちらを向いてくれましたね」
「え」
「言ってませんよ、誰も」
「……え」
「
夢野さんがあまりにも相手をしてくれないので、気を引きたくてつい、でまかせを」
いたずらに笑ったままの彼を、
夢子は呆気にとられた顔で見ていた。
「どうしても気分が乗らないというなら、今日はこのまま送りますよ」
「……レストランの予約はどうするんですか」
「ひとりで寂しく食べますよ……というのは冗談ですが、予約しているレストランはなじみのところですから、そう、お気になさらないでください」
「それじゃあ……すみませんが、今日は帰ります」
「……そうですよね、ハチスカさんに騙された被害者ですもんね」
その声を聞いて、
夢子は自分の言葉を後悔してしまった――決して、自分の選択肢は間違っていないはず。それなのに、どこか悲しく感じるのはどうしてだろう?
どこかから湧き出る申し訳無さから、
夢子はしばらく言葉を出せなかった。だが、再び車が進み出すと、どこか心のわだかまりがほぐれたような気がした。
「……分かってるなら、どうして誘いに乗ったんですか」
しばらく言葉が返ってこなかったことに、
夢子は野暮な質問をしてしまったのかもしれないと再び後悔した。右側から「
夢野さんも意地悪ですね」と聞こえて、ついにやってしまったと思っていると、ナカテガワが言葉を続ける。
「それでも、乗りたくさせるんですよ。あなたのこととなると」
あまりにストレートな言葉に、
夢子はドキッとしてしまった。照れ隠しに、その理由を訊いてしまうほどだった。
「ど、どうしてそこまで……私のことが、す……気になるんですか」
「長くなりますけど、いいですか?」
「……からかってませんよね」
「おや、鋭いですね」
ちらりと横顔を見てみれば、その顔は笑っている。なんだかんだ横顔を意識してみるのは初めてで、いつもならば嫌味だと感じ取っていた彼の上機嫌な顔が
夢子にはなんだか嬉しく感じられた。その感情が一体どこから生まれたのかも分からないまま、
夢子もつられて微笑んでしまいそうになった。
「これといった理由を訊かれても、私にも答えかねます」ひょうきんを含ませた声音とは一転して、今度は落ち着いたトーンになる。「ですが、あなたを一目見たとき、衝撃が走った……というのはいささか古い表現ですかね。……とにかく、
夢野さん、私はあなたに対して非常に興味があるんです」
「きょ、興味……」
単純に“好意”と言ってしまわない彼独特の表現に驚いていれば、彼は「ええ」と当然だとばかりに返し、しばらくしてから「あ、もちろん恋愛的な意味ですよ」とこれまた真面目に返した。
「私が、あなたの姿勢に引き気味なのは分かってますよね」
「それは、分からないわけないじゃないですか」
「だったら、どうして……私はうんざりしてるんですよ、勢いで異動願を出そうかとは思うぐらい」
「それは残念ですね。もし
夢野さんが24署からいらっしゃらなくなったら、私はこれからどうしたら良いものか……路頭に暮れるでしょうね」
「いいですよ、そこまで言わなくても」
「そうですか。では、私は別に
夢野さんがここを辞めても、仕事は続けますよ、いつも通り」
「……だからって、そこまで言わなくても」
夢子の言葉を気にすることなく、ナカテガワは「ですが」と続ける。
「あなたが仕事を辞める時は、寿退職ぐらいでしょうね」
その言葉に驚いた
夢子がナカテガワの方を向けば、彼は幸せそうな顔で「もちろん、私との」と付け加えた。あまりにも甘ったるい、そして大胆なプロポーズに、
夢子は照れ隠しに「運転に集中してください!」とすぐに返した。
「私は、結婚しようがどうしようが、この仕事を辞めるつもりはありませんから!」
「そうですか、でしたら続けてもらっても構いませんよ。ふたりで頑張りましょう」
「だから、どうして私がナカテガワさんと結婚する前提なんですか!」
「ですが、子どもができた時はどうしますか? 育休制度というものはありますが、案外世間は厳しいですからねえ」
「人の話聞いてない……」
夢子が呆れたようにそう呟けば、ナカテガワはケロッとした様子で「聞いてますよ」と言うのであなどれない。
「とにかく、
夢野さん、私はあなたのことを大切に思っていますから、あなたが望むことはできるかぎり叶えたいというのが私の考えです。ですが、育児を分担するというのはやはり難しいところがありますので……ここは私が多めに稼ぎますから、申し訳ありませんが
夢野さんに多めに育児を負担していただくということに――」
「話が進みすぎですよ! まだ一歩も進んでいないというのに!」
「おや、“まだ”ということは、いずれ進めるおつもりで?」
「揚げ足を取らないでください!」
ナカテガワといるといつも叫んでばかりで、これでは自分の方が先にダウンしまいそうだと
夢子は思った。そして、一方では、どうしてかこの会話が前よりも楽しく思えて、もっと彼と話したいと思ってしまっていた。そう思った時には口からポロリと「ナカテガワさん」と彼の名がこぼれていて、自然と後には引けないようになっていた。「何ですか?」と向けられるナカテガワの視線に耐えられず、妙に恥ずかしい
夢子はボソボソと話す。
「やっぱりお腹空いたので、その……」
「その、何ですか?」
何となく、ナカテガワは分かった上で自分に言わせようとしているのだということに気付いていた。しかし、今の
夢子は、進んでその挑発に乗りたいと思っている。
「レストラン……行きましょう」
「そう言ってくださるのを待っていましたよ」
ポーカーフェイスで通っているナカテガワの顔がこんなにも分かりやすく表情を変えるのかと、
夢子は彼の横顔を見ながらそう思った。彼の表情の変化の理由が自分の言葉なのだと思うと、どこか気恥ずかしくもある。
「ですが、これで私が先ほど言った『
夢野さんの方が私との食事を望んでいる』というのも嘘じゃなくなりましたね」
「そういうわけじゃ――」
「いいんですよ、そう言うように誘導したんですから。あと、カロリー消費のために
夢野さんには叫んでもらいましたし」
「……策士め」
夢子が捨て台詞を吐けば、ナカテガワは「それは誉め言葉ですね」と満足げに微笑んだ。
***
レストランでのディナーを終えたふたりは、それから車に乗り、あてもなくドライブをした。ここで
夢子がすぐに家に送るようにと促すことなく、そしてナカテガワも「送りましょうか?」などと気の利いた言葉をかけなかったのは、ふたりの間の何とも言えない関係を保つのに一役買っていた。
夢子の方も
夢子の方で、すぐに「それじゃあ帰りましょうか」などとムードを微塵も気にしない言葉を発して、ふたりの雰囲気を元のつまらないものに戻してしまっても良かった。それなのに、黙ってその身をナカテガワに預けているというのは、一種の
夢子の覚悟が表れでもあった。
「おいしかったです、ディナー」
「お口に合ったのなら、なによりです」
食事前よりずいぶんと視界の悪くなった車内では、互いの存在を濃くしている。
「……いつもおひとりで通ってるんですか」
「ええ。お相手でもいればいいんですけどね。今日は、久しぶりの誰かとの食事でした」
自分で訊いておきながら、
夢子はどんな言葉を返したらいいのか分からなくなった。「今度から、私がその“お相手”になりますよ」などと冗談で言っては本気だと勘違いされたら困るし……
本当に? ……本当に、私は困る?
1メートルと離れていない車の中で肩を並べていることを、不思議と心地よいと感じている。それは、おいしい食事に誤魔化されたものではなく、食事前に彼が伝えてくれた言葉がもたらしたものだった。
夢子は、わからなくなった。もはや、彼を今まで嫌って避けていたのも、もしかしたら無意識の内に、“彼のことを好きになってしまっては、あまりの幸せに後戻りできなくなる”と感じていたからなのではないか……そんなことを考えてしまえば、途端にむずがゆくなる。何か言葉を発してしまえば、すぐに自分の気持ちがダダ洩れになってしまうのではないかと不安になるし、だからといって黙りこくっていてはどこかもったいない気持ちになる。
そうしていると、隣のナカテガワがそわそわとしているのが感じられた。“まさか”と驚く思いと、当然として考えていたような流れを迎えていることに対する安堵。どんどんと早まる鼓動が、全て筒抜けになっているような錯覚に
夢子は陥る。
「
夢野さん、あの……」
少し浮ついた声に、
夢子は「何ですか」と落ち着いた声を使って平常を装って見せた。
「実は……今日、急遽、夜からの仕事が入りまして」
「……」
「短い時間しか過ごせないというのは、私としても残念なのですが」
「…………」
「あの……
夢野さん?」
「は、はい、分かりました」
……あれ?
夢子は、ナカテガワが自分の前から去って行くことに対して期待外れの気持ちを抱いている自分がいることに気付いた。突然仕事が入ったことを、少しもったいなく思う自分を。
別に、これからこのままホテルに……ということは期待していたつもりではない、と思う。多分。それなのに、彼が自分と過ごすことよりも仕事を優先すること(当然ではあるのだが)に対して、
夢子はヤキモチに近い感情を抱いていたのだ。
「よろしければ、ご自宅まで送りますが」
「それは申し訳ないので、ここから近くの駅まで送っていただけると……」
「そうですか? 時間にはまだ余裕はありますので、ご遠慮はなさらないでください」
いつもならば、“この男は人の家を知ろうとしているな”と疑い深い目で見ているだろうが、今は、ただひたすらに彼からの親切心と温かな好意が感じられて、
夢子はそのまま受け取ってしまうのを忍びなく感じていた。今まで受け取り拒否ばかりしていた好意を今だけ受け取り、いいように彼を使ってしまうというのが
夢子には気が引けたのだ。
車が、駅の乗り降りレーンに停まる。ドアを開けて下りる前、
夢子はぎこちなくも今日の感謝を述べた。
「今日は本当にありがとうございました。……その、お仕事頑張ってください」
その言葉にナカテガワは驚いた表情をしたが、すぐ、にこりとして「
夢野さんにそう言ってもらえると頑張れます」と言った。そんな些細な表情があまりにも素敵に思えて、
夢子は自分がどうにかしてしまったのではないかと思った。馬鹿げてはいるが、まさかディナーの中に変な惚れ薬でも入れられてしまったのではないかと思ってしまうほどだった。
車から降りて、ガラス越しにナカテガワの様子を見る。その瞳が、今日はもう自分を見てくれないのだと思ってしまえば、
夢子は悲しく思ってしまった。そして、その悲しみの理由が何なのかを考えれば、
夢子は新たに芽生えた気持ちを蔑ろにすることはできないことに気付いた。
***
「で、どうだったの? ナカテガワさんとは」
いつの日かと同じように、チヅルが
夢子に話しかける。
「どうも何も、普通だったけど」
顔色一つ変えずにコーヒーをすする
夢子を、チヅルは少々つまらなく思った。ひどいことをしてしまったということに対しては申し訳なく思っているのだが、どうせならもっと大きなリアクションを示すか、彼女の感情が乱されていることを確かめたかったのだ(全く、友人と言えるのか疑わしいものである)。
チヅルとナカテガワは同じ凶犯課ではあるが、彼はああいう性格からか、そう簡単に口を割ろうとしない。公安仕込みの巧みな話術によって、気付けばはぐらかされているのだ。となれば、チヅルは、案外感情の出やすい友人を問い詰めるしかなく……
「何よ、普通って。ちゃんと説明しなさいよ」
そう、チヅルが言うのももっともだった。
だが、
夢子からすれば気に食わない。いくら、今の
夢子がナカテガワに好意を持っているとしても、一応、チヅルにハメられた時点では嫌いだったのだ。そのことを知った上でナカテガワをあてがってきたというのは、許せない事実に変わりない。チヅルが望んでいるであろうことをあえて言わないでいるというのは、
夢子なりのささやかな仕返しだった。
加えて、それまでナカテガワのことを、嫌いだ苦手だ、と散々言ってきたというのに、今では彼のことを恋愛的に気にかけているのだ。どうして自分がそんなに心を変えてしまったのかということを話すと、ナカテガワが一体どのようなことを言ったのかということまで説明しなければならなくなり、それはそれで恥ずかしい。だからといって、黙っていては、たった一回のディナーでコロッといってしまった女、みたいに茶化されてしまう恐れがある。どうにもならない
夢子は、無理矢理にでも誤魔化すことにした。
「普通ったら普通なの!」
「……びっくりするじゃない、突然声を張り上げて」
相変わらず扱いづらい友人の様子を見ながらも、元気が無いわけではないことを確認したチヅルは、ひとまず悪い方に向かってはいないことを悟った。
あの時は
夢子のことも放って、モリカワとの逢瀬を楽しんだチヅル。その件もあるのだし、こんな態度を取られても仕方がないと思った彼女だったが、ふと、口からこぼれた。
「……そういえば、最近、他の男を紹介してって言わなくなったわよね」
――ぎくり
このときの
夢子に付けるべき効果音は、これ以上に相応しいものは存在しなかっただろう。今の慌て具合を見られただろうかと、
夢子がゆっくりとチヅルの方へと顔を向ければ、眼鏡の奥で光る瞳とかち合う。
「……ふうん」
チヅルが、デスクに着いた
夢子を見下ろしたまま、意味ありげな笑みを浮かべた。
……この女に嫌なネタを与えてしまったことを、
夢子はひどく後悔した。
そして――それと同時に、改めてナカテガワと向き合う機会を設けてくれたことにひっそりと感謝もしているのだった。
END