「……仕事?」
わずかな衣擦れの音と、寝起きすぐのはっきりとしない
夢子の声。クローゼットの中からスーツを取り出していたナカテガワはその手を止め、ベッドの方を振り返った。
「ああ、すみません、
夢子さん。起こしてしまいましたか」
同じベッドで眠りについていたふたりだったが、どうやらナカテガワには仕事先からの連絡が入ったらしい。電話が鳴ってすぐに反射的にベッドから出た彼がもたらした隙間風が、
夢子を眠りからゆり起こした(とは言っても、まだぼんやりとした意識のままでしかないが)。
ついさっきまで寝ていたとは思えないような彼の服を着る素早い動きを見ながら、
夢子はポツリと呟く。
「こんな時間でも呼び出しなんて、よっぽどブラックだよね」
「……まあ、それが仕事ですからね。その分給料もいいですし」
シャツにトランクスと靴下、という間抜けな格好をしてそんな冷静なことを言う彼を、
夢子は少し面白く思った。しかし、彼がスラックスを穿いてしまえば、いつもの切れ味鋭いナカテガワ捜査官に戻る。それでもまだ鈍く感じられるのは、彼の前髪が下りたままだから。疲れて家に帰ってきて風呂に入った後の、彼のその姿が
夢子は好きだった。隙を見せてくれているような、幼く見えるような……そんな、母性本能をくすぐられる姿はいつもの彼とはかけ離れているように感じられた。
「……そんなに見られたら恥ずかしいですよ」
「あ、ごめんなさい」
「
夢子さんが見たいのなら、喜んで見せますけど」
そう言ってふざけた笑みを見せるナカテガワの顔を、サイドランプが照らす――こんな時間に呼び出されたというのに人に当たることなくいつもどおりに接してくれる彼のことを、
夢子は尊敬してもいた。自分の機嫌は自分で取るべきだとは言っても、外的要因に対して対策できることなどたかが知れている。結局は自分の器の大きさに拠るところがほとんどを占めている。
ネクタイを腕にかけ一度寝室から出ていったナカテガワは、しばらくすると戻ってくる。その前髪はしっかりと上げられ、ネクタイはギュッと形よく結ばれ、自然と仕事用の顔つきへと変わっていた。
こうなると、
夢子は気後れしてしまう。仕事に精を出すことは決して悪くはないが、彼が仕事に打ち込めば打ち込むほど自分との距離が広がっていって、どうしてか自分とは遠いところに存在する人物のように思えた。
夢子の薬指に指輪がはまってからも、それは変わらなかった。より、些細な距離が目立つようになった気さえする。
最後に、ダブルのジャケットを羽織ろうとするナカテガワ。
夢子はそれを手伝おうかと思ったが、今はそのシワひとつないスーツに触れることさえためらわれた。
ベッドの上で、彼女が尋ねる。
「夕方まで帰ってこない?」
「おそらく」彼は慣れた手つきでボタンを留める。「できれば早く帰りたいんですけどね」
「……期待しないで待っとく」
休日などというものは、24署の捜査官である夫には関係ない。呼び出しを受ければ向かう、ただそれだけのこと。結婚する前から、彼には習慣として染みついているもの。
しかし、それを十分に分かったつもりで結婚したとしても、それは時にとてつもないさみしさをもたらす。独身時代、一人で寝ることが出来ていたのが不思議なほど、今はこのベッドを独り占めすることが恐ろしい。そして、隣の温もりがないことがとても悲しい……
夢子は、こういった感情を自分が抱くことを想定していなかった。また、こういう時に限って、仕事のために同じ指輪をはめることができない彼の左手へと意識が向かってしまうからたちが悪い。
バッグを持って玄関へ向かおうとするナカテガワを見て、
夢子もベッドから出た。
「いいですよ、寝ていてください」
「いいの、お見送りぐらいさせてよ」
ただの気遣いの言葉さえ、まるで彼が自分を見放そうとしているように思える
夢子は、子どもが意地を張るようにして答えた。
ナカテガワの広い背中を追いかけるようにして廊下を歩き、玄関へと辿り着く。彼は革靴を履くと、振り返って
夢子と向き合った。その光景を目の当たりにして、
夢子は、この出勤前のやり取りも実は数えるほどしかしていないことに気付く。
結婚前は何度も思い描いていた憧れのこの動作も、いざ目の前に迎えてみるとなんだか悲しい。夫が自分の目の前からいなくなることを、笑顔で受け入れなければならないのだから。
「ちゃんと帰ってきてよ」
「なんだか大事ですね」
「うん、おおごと」
言葉が出てこない。こんなことになるならばベッドの上で静かに寝ていれば良かった、と
夢子は思った。ただ彼を見送るだけだというのに、彼はまた何事もなく帰ってくるというのに、自分がこんなにもナーバスになっているのが信じられなかった。
きっとこんなに不安定な気持ちになっているのも、夜のせい。まだまだ冴えない頭がいいところに
もやをかけて、冷静な思考の邪魔をしているに決まっている。
「
夢子さん」
夢子がうつむいた顔を上げれば、そこにはナカテガワの顔がある。そのまま彼の唇が近づいて、触れるだけのキスをした。
肩に添えられた手が離れて、ふたりは再び見つめ合う。
「……
夢子さん、そんな顔しないでくださいよ」
ああ、私はただのわがままな人間だ――ナカテガワの声からわずかな悲しみを読み取った
夢子は、“これではいけない”と、すぐに表情を元に戻した。
「ふふ、仕事行きたくなくなった?」
「それは訊くだけ野暮ですよ」
そう、彼は凶犯一課のナカテガワモリチカなのだから。
「それじゃあ、いってきます」
「うん、いってらっしゃい。気をつけてね」
バタンと扉が閉じて、
夢子は振っていた手を下ろす。鍵をかけて、少し泣きそうになっている自分に喝を入れる。
それからベッドルームへと戻り、もういちどシーツの中に身をうずめた。それでも、なんだか眠れずに……
夢子はひとまず目を閉じて、夜の続きを過ごすことにした。そして、夢の中へと……
END