額からこめかみを伝い、頬を流れ、顎からしたたり落ちる汗。
仙道はボールを持つ牧と向かい合い、これから先の動きを予測しようとした。
息が上がって無意識の内に上下する体を抑え、ただひたすらに牧の視線や細かな体の動きに集中する――ゴールを見た……ボールを右にフェイントして……だが体の重心は――左だ!
しかし、そう思った時にはすでに牧の左足がクロスして前に一歩出ており、自身の左肩を仙道の左肩に擦るようにして、利き手でドリブルするボールを取られないようにした。
抜群の瞬発力を持つ仙道も負けじとすぐさま対応してシュートを邪魔しようとしたが、牧もだてに“神奈川の双璧”と言われているわけではない。食い下がるオフェンスをもってしても微塵も牧の体幹を揺るがすことができなかった仙道は、牧のダブルクラッチに翻弄されるだけ翻弄されて……ゴールネットの心地よい音に、ふう、と息を吐いた。
落ちてきたボールがワンバウンドしてから取ると、仙道は服の裾で汗を拭う。それから腰に手を当ててこちらを見る牧を見返せば、自然と笑みがこぼれた。
「……ブレないっすね」
「鍛えてるからな」
近くに置いていたバッグにかけていたタオルを取った牧は、顔を拭く。
普段着のポロシャツ姿の仙道と比べて練習着の牧だけ見れば、まるでそこが海南大附属高校の体育館の中であると錯覚できるほどだった。焼けた肌にじわりと浮かび上がる汗が午後の光できらめき、濡れた髪が束になっている。
「そろそろお開きにするか」
「そうっすね。ありがとうございました、突然誘ったのに」
「仙道だったら、いつでも歓迎だがな」
部活バッグを肩にかけて「海南に来るのも歓迎するぞ」と冗談めかして言った牧に、仙道は「あはは、考えときます」とこれまた冗談ぽく返す。案外ノリのいい牧とのやりとりを、仙道はそれなりに楽しんでいた。
バスケットに関しては天賦の才能を持つ彼は、こうした部活抜きのストリートバスケも好んでいた。今日は少し早めに練習が終わった牧がシュート練習をしようかと帰り道にあるバスケットコートに寄ったところ、部活をサボって釣りに来ていた仙道とばったり出会ったのだった。
予め何かしらの形で時間が決められているとなると気分が乗らないのだが、ぶらぶらとして、自分の気持ちの赴くままに何かをするというなら俄然やる気が出る。あまのじゃくな性格だと言われれば言い返せないのだが、仙道からすれば自分ではどうにも変えられない性質だった(そもそも彼はそんなことを意識したこともないのかもしれないが)。
牧との真剣勝負に気持ちの良い汗をかいた仙道は、今度は手の甲で汗を拭おうとする。
「紳一!」
その声に、仙道は手を止めた。牧は振り返ると、コートを囲う柵越しにこちらを見る恋人に手を挙げて応えた。
やって来た牧の恋人――夢野夢子は、仙道にも「久しぶり」と声を掛けた。
「珍しいね、仙道君がここにいるなんて」
休日だの祝日だの、全国大会への出場を目指す強豪校では関係無い。牧が休日も返上でバスケに打ち込んでいるのを見てそれが普通なのだと思っている夢子は、仙道が普段着でこの場にいることを不思議に思っていた。
しかし、仙道が「ちょっとサボりで」と悪気もない微笑みでそう言ってしまえば、彼が“そういう人間”だということを瞬時に思い出すほかなく、ただ一辺倒に注意しても無意味なことを知っていた。
「監督に怒られちゃうんじゃないの」
「そうかもしれないっすね」
仙道がそう言った時の顔は、ともすれば何か褒められた時の照れ隠しにまるで他人事のように振る舞ってみせるのと変わらなかった。
「なんでそんなに他人事なの、仙道君は変わらないね」
夢子は笑ったが、その笑顔に対して不快感を抱くのではなく、むしろ喜びを感じるのが仙道らしくもあった。が、それはただ仙道の性格だけではなく、彼の感情がもたらすものでもあった。
仙道は、夢子の笑顔が自然と牧の方へと向いていくのを、淡い笑みの中でじっと見ていた。
「どうだった? いい勝負できた?」
牧を見上げる夢子の顔は午後の一番まばゆい光を浴びて、まるでスポットライトが当たっているかのようにきらきらとしている。そして、その瞳はまっすぐに恋人の顔を見つめており、それが容易にずれてしまう気配は微塵も感じられなかった。そんな彼女に対しいかにも普通な視線を返す牧が、仙道には歯痒く感じられた。
「ああ、いい勝負だった。……なあ、仙道」
突然ふられた仙道は、慌てて答える。
「え、ああ、はい」
同級生同士のカップルである牧と夢子は、仙道とたった1つしか歳が変わらないというのに、やけに大人びて見えた。
他の男と恋人が親しく話していてもどこか余裕で、何なら楽し気に見つめる様子は嫌でも牧の懐の深さを認めるしかない。夢子が他の男のところに行くはずがない、といった確信を持っているように見えた。そして、決してその確信に頼りきって慢心を育てているのではなく、絶えず彼女の気持ちに応え続け、変わり続ける魅力を持っている。
今も、彼女が仙道と話をするのも、その後のことを考えればそれしきの興味ならばいくらでも彼に向けてやってもいいと言われているようだった。恋のライバルとして全く相手にされていないにも等しい。
「夢子、俺はそろそろ帰るが……仙道ともう少し話すか?」
自分がやましいことを考えていなければ何とも思わない台詞だろうが、今の自分にはまるで探られているような、煽られているような、そんな気さえする……仙道はそう思った。
「……牧さん帰るなら、夢野さんも帰った方がいいっすよ」
「そうだね、それじゃ、またね。……あ、県大会かな」
最後に嬉しそうな顔を向けてくれた夢子に微笑みを返しながら、仙道は言葉も無く頷いた。
「じゃあな、仙道」
「今日はありがとうございました」
牧に感謝を述べると、そのままふたりの背中を眺める。徐々に小さくなっていくふたりの姿は見たくはないが、目を反らすことができない。
やっと視界から消えた時に、仙道は変な汗がこめかみを伝っていることに気付いた。先程と同じように、服の裾で汗を拭おうとしたが……仙道はその手を近くに置いていた釣竿へと伸ばし、もう一度釣りに出掛けることにした。
▽
1年生の時からその才能を遺憾なく発揮してきた彼だったが、対してその中身は案外抜けていることはあまり知られていなかった。
入学してからすぐにチームの即戦力としてスターティングメンバーに抜擢された彼のことを妬むチームメイトがいても良かったが、不思議と誰も仙道の悪口を言う気にはならなかった。決して、彼が八方美人だったわけでもない。
彼の、監督にまでも見せるのらりくらりとした態度。そして、裏口を言う口など塞いでしまうほどの圧倒的な実力。
普通は対極に存在するような特徴が、信じられないことにひとつの体の中に納まっていたのだ。そして、そんな彼に対して、チームメイトは多大なる信頼を寄せるしかなかった。
そんな仙道が夢子の存在を初めて知ったのは、1年生の時の県大会のことだった。先輩や同級生からの「ナイスプレー」だの「スゲー」だの、そういった誉め言葉を散々浴びた仙道は、熱気のこもった体育館から逃げるように外に出た。
途中で、今大会での活躍でできたと見えるミーハーなファンに声を掛けられたのは、さすがに彼にも想定外だった。彼お得意の面倒ごとを避けるような苦笑いで誤魔化した仙道だったが、これから先もこんなことが続くと困るな、と思った。
……そんな考えごとをしながら自動販売機へと向かっていた仙道は、特に混雑している玄関でひとりの女子学生と体をぶつけてしまう。
思うように身動きが取れない中でのことだったため、決してわざとだったというわけではない。缶ジュースが高い音を立てて落ちて、「あ!」と驚きの声も聞こえる。すみません、と即座に口にした仙道はその大きな体を屈めて、落ちた缶ジュースを拾った。
「ここに入れてもらえると……」
女子学生が広げたバッグの中には同じような缶ジュースがいくつも入っていた。まさか1人で飲むわけでもないだろうし、差し入れだろうか。
誰かの応援をしに来た学生の1人であることは明確だったが、仙道は先程自分のファンだと名乗る女子学生と会った時とは一転して、自分の応援に来た人であってほしいと思った。それは、彼に似つかわしくない個人に執着した願望だったが、彼自身は違和感なくそれを受け入れた。
「ありがとうございます」
そう言って仙道を見る瞳は、それ以上の何かを伝えることはない。それが、彼にはひどく心地が良かった。
「……いえ、こちらこそぶつかってしまったみたいで」
この時仙道が浮かべた微笑みは今までのような浅い苦笑いではなく、心の底から滲み出たものだった。それからふたりがもう一度出会うといった運命的なものはなかったが、時折ふと思い出すことがあった。
そうして、2年生になった。ついに仙道は、忘れられずにいる女子学生と再会したのだ――牧紳一の恋人である夢野夢子と。
さすがに、いつから付き合い始めたのかとは聞けなかった。だがもし、あの時にふたりが付き合っていなければ自分にもチャンスがあったのではないかと思うと、仙道は後悔の念に駆られた。しかも、あの時缶ジュースを拾った人なのだという認識さえ、仙道が言うまで夢子には無かった。
一方、夢子は夢子で、あの日勇気を出して牧の応援に行っていたのだ。スポーツドリンク缶の差し入れを持って、お気に入りのほんのりと色づくリップをつけて。
牧への思いを燻ぶらせる彼女からすれば、他のものは何もかもが輝いて見え、気が気ではなかった。それは、牧に「よかったら応援に来てくれないか」と照れを混ぜたように言われたことも大きかった。
牧との交際は順調で、仙道はおろか、他の人物の入る隙などどこにも無かった。仙道も特別意識しながら夢子と接していたわけではなかったが、顔を見るたびにじんわりと欲望が浮かび上がる(彼の場合は三大欲求さえも釣りかバスケットで解消してしまうので、彼女への想いで行動が制限されるようなことは無い)。
仙道は、牧を通じて時々会って、他愛のない話をするのが最適解なのだと思うことにしていた。
▽
海南との練習試合を終えた仙道は、試合後の興奮に任せて街をぶらぶらとしていた。どちらかと言えば人のいないところでぼんやりとしている方が好みなのだが、騒がしいところから急に静かになるのも高低差で変になりそうだった。
そんないつもとは違う選択肢をしたのは、ある異変が原因でもあった。練習試合だというのに、夢子が応援に来ていなかったのだ。
どのみち自分の応援に来ているわけではないのだから関係無いのだが、やはり気になってしまう。別に何か用事があったのかもしれないし、大した問題ではないと思う。だが、それが彼女だからこそ妙に引っ掛かって仕方がなかった。
もちろん、仙道のプレーに影響を与えるほどではなかったが、彼が人の動向を気にするなんてどれほど珍しいことなのかを考えれば驚くべきことだった。
何か買うわけでもなく、なんとなく歩く。ああ、この街のどこかに彼女がいて、あの時みたいに偶然出会えたらいいのに……そんな男子高校生らしい想像をしていると、その願いが届いたのか、丁度本屋から出てきた夢子とばったり出会った。
「仙道君」
「夢野……さん?」
声を掛けてきたのは同年代の女子で、よく見る制服姿ではなかったからか一瞬誰なのか分からなかった。だが、嬉しそうに笑って話しかけてくる顔を見れば、彼女だと確信を持つ。こんなツイてることがあっていいものかと思いながらも、これは現実なのだと無条件で受け入れていた。
「偶然だね」
「制服じゃなかったから、一瞬誰かと思いましたよ」
「あはは、そう?」
自分だけを見て笑う夢子の姿は、仙道をこれ以上なく嬉しくしてくれた。
「あ、そうだ。これからカフェに行こうと思ってたんだけど、良かったら仙道君もどう?」
夢子に誘われて、仙道が断るはずもなかった。
ベルの鳴るドアを、仙道はいつもの癖で頭を下げ気味に通り抜ける。上目遣いの店員に窓際の席に通された2人はソファ席を譲り合い、結果夢子がソファ席に座った。目の前に彼女がいて、独り占めできるのだという優越感に仙道は浸る。
それでも、肝心の今日の練習試合のことについて全く触れる素振りがないのが気になって、思い切って訊いてみることにした。
「今日、応援来てませんでしたよね」
一応、変に思われないように「牧さんの」と付け加えたが、夢子は視線を反らして素っ気なく答えただけだった。
「そっか、今日は陵南との練習試合だったっけ」
まるで他人事のような態度を見て、仙道は違和感を抱く。
仙道の知っている彼女は、恋人の部活のことまで把握していて、公式戦以外でも牧がプレーするとなれば必ず応援に行くような熱の入れようだった。夢子が牧に差し入れを渡す姿を見て後輩や他校の生徒が羨望の眼差しを送るのもいつものことで、そこに仙道がひょっこりと現れるのもいつものことだった。
「珍しいっすね、何か用事でもあったんですか」
それは素直な疑問だったが、途端に夢子の表情が暗くなる。深入りしすぎたかもしれないと、仙道は即座に後悔した。
注文したドリンクの揺れる水面を見ると、彼女はうつむきがちに吐露した。
「あー……実はね、今ケンカ中なの」
「理由聞いても……?」
仙道に視線をやることなく、夢子は窓の外へと視線を移す。
「……紳一がバスケットに熱心なのはわかってるんだけど、分かってて付き合ったんだけど、やっぱりそれが原因でデートが潰れたり、色々と融通が利かなくなるってなると……」
やっと向けられた夢子の瞳は、仙道には強がっているように見えた。
「申し訳ないって思ってるの。わがままで悪いって。でも、つい気分任せに言っちゃった」
苦笑いをする夢子を見て、仙道はどう言葉をかけたらいいのか悩んだ。
当たり障りのないことを言って彼女を励まし、いつものように笑っていてほしいと思う。しかしその反面、自分にもチャンスが回ってきたのかもしれないと濁った欲望が湧き上がる。
それでも、無理をして笑顔を見せる夢子の前では半端なことは言えそうもなかった。
「俺もバスケ優先だから、何とも言えないすね。……俺の場合は、釣りもですけど」
仙道がいつもの調子でそう言えば、夢子は笑った。
「あー、相談相手を間違えちゃったな」
「ひでえや」
そう、そうやって笑っていてほしい。今だけは、あの人のことも忘れて俺と向き合っていてほしい。
仙道の中の素直な気持ちは、誰にも否定する権利はない。
「でもさ、どうだった? 今日の紳一。私の応援パワーが無いから、ダメダメだったとか」
「いや、いつも通りでしたよ。容赦なかったですしね」
彼の中の意地悪な気持ちが顔を出してしまう。掴みどころのない自分の性格をいいように使ってみせた仙道だが、すぐに後悔することになる。
「……そっか、そう、だよね」
夢子は再び窓の外へと目を向ける。その横顔はどこか遠くを見つめ、目を潤ませているようだった。それから仙道に向き直り、ひょうきんに笑ってみせる。
「なんか最近、感傷的になることが多くてさ……ほんと困るよ」
「……」
「だけど紳一は完璧で、私の存在があんまり関係なさそうに思えるのも事実だから仕方ないよね」
その痛々しい笑みを見て、仙道は今すぐに彼女を抱きしめることができればいいと思った。
――しかし、それはできない。
決して、意気地なしだとか勇気が出ないだとかそんなものではない。抱きしめてしまえば、夢子はもっと顔を歪めてしまうだろうということに仙道は気付いていたのだ。
きっと今は、彼女の気持ちに寄り添いつつも、ただの後輩として面白く返した方がいいだろう。
相手のことが大切だからこそ容易に伸ばすことができない手というものが存在していることを、仙道はこの時初めて知った。
▽
「よう、仙道」
「牧さん」
仙道がバスケットコートでシュート練習をしていると、牧が現れた。
「調子はどうだ」
「ぼちぼちっす」
牧が肩にかけていた部活バッグを下ろしたのを見て、仙道は何気ないふりをして尋ねる。
「あれ、夢野さんは?」
「夢子なら、今日は課外授業があるんだと。何か夢子に用があったか?」
「いや、この間夢子さんと偶然会ったんですけど、その時ケンカしていると聞いたもんで」
「ああ、そのことか。……それなら心配しなくていいぞ。すっかり元通りだ」
そう言ってにっこりとしてみせた牧を見て、安心半分、どこかつまらなく思う気持ち半分……仙道の心の中で顔を出す。彼自身、こんなのは自分らしくないと思いながらも、ただ素直に喜んでいることができなかった。そして、今の自分の気持ちを痛感することになった。
一方、牧は仙道がそういった色事に興味があるとは思っていなかった。まさか彼が自分の恋人のことを好いているなどとは夢にも思っていなかったことだろう。決して、仙道はずるい手を使ってまで人の恋人を盗み取ろうという人物ではないのだが、牧が慢心をちらつかせなかったのは正しかった。
牧が靴ひもを結び直せば、すぐに2人は1on1を始める。だらだらと何か話しているより、バスケットをしている方がよっぽど互いのことを分かりあえる――例え、その心の奥底に秘めた想いまでもを暴くことはできなくても。
相手からボールを無理に奪わずとも、相手がシュートを決めてゴールネットから落ちてきたものならば問答無用で自分のボールになる。そこからゲームを組み立て直すというのも戦略のひとつだ。
しかし、相手の不意を突いてボールを奪いたくなることもきっとあるだろう。プレー中のスティールなど、誰も咎めはしないのだから。
2025/6/7