インターハイ出場をかけた、陵南VS湘北の試合の日。応援をするために試合を見に行った私は、その日の夕方、彰にメールを送った。
彼の心境を想像すれば、今は誰とも口を聞きたくないんじゃないかと思うのは当然だったから。電話を掛けて今すぐにでも声を聞きたかったけれど、彰が見たいときに自由に見れるメールを選んだ。
けれど、本当は……私の方こそ、どんな感じで彰と話せば良いのか分からなかった。
ただ励ましの言葉をかければいいものではないだろうし、彰だってそんなことはきっと望んでいないと思う。勝ち負けがつくスポーツに日々汗を流す彰にとって、別にこれが初めての敗北だというわけでもないだろう。それに、日頃の彰の様子を見ていれば、あまり感情的になることも、何かに強く影響されることもない人間だということは分かっていた。
それでも、この大会の意味の大きさを考えると……部外者とも言える私がとやかく言えることではないと思った。いくら恋人だとしても、気安く彰に話しかけることはできないと思った。
『
夢子、メールありがとう。
悪いけど、今日は会えない。』
案外早く返ってきた返信メールを見て、ため息をついた。
御託を並べはしたけれど、私は、何となく彰に会える気がしていたからか、その文章に落胆した。どうしても踏み込めないテリトリーをたった今、彰の方から示されたようで、彼から急に突き放された気分になった。
試合を見ている最中も感じていたけれど、コートの中であんなに抜群の才能を発揮する彼を見ていると、どうも彰が遠い存在のように思える。隣で穏やかな笑みを浮かべるマイペースな彰ではなく、陵南高校の絶対的エースである仙道彰。それも、多くの人々の視線を存分に集める花形プレーヤー。
試合中は当たり前だとしても、このまま私のことが視界に入らなくなってしまうんじゃないか……ほんのりと生まれた不安が、このメールで確実性を増したようだった。
***
陵南の敗北と、彰からの返信――少し窮屈な気持ちになった私は、開放感を求めて外に出た。
頭の中では理性的に考えをまとめて、もっとポジティブに現実を捉えようとしていたけれど、体は正直だ。いつのまにか、彰が良く使っているバスケットコートの前まで来ていた。心の中の“彰に会いたい気持ち”が彰の幻影を生み出して、気付かないうちにそれを追いかけていた。
……ドリブルの音が聞こえる。その音と共鳴するように私の鼓動も高鳴って、どこからか生まれた緊張感からか、私の足が止まる。コンクリートに響く音がしばらく止んだかと思うと、ボールがリングを通り抜けた音が。
耐え切れずコートに近寄って見れば、彰が一人で練習をしていた。
彰って、すごいな。
その光景を見て、私は素直に感心してしまった。
インターハイ出場をかけた試合があった日、というだけでも疲れているだろう。加えて、彼は苦い敗北を味わった。
それなのに、それなのに……彼はまるで変わりのない普通の日のように、バスケットコートでひとり、ゴールと向き合っている。試合があったとは思えない、負けたとも勝ったとも思えない平常通りの様子で、バスケットと真摯に向き合っている。
フェンスに指を絡ませて見ていた私は、思わず前のめりになって顔が当たってしまう。その音で、彰は私に気付いた。ボールを脇腹に抱え、目を丸くしてこちらを見る。
「
夢子……」
<会えない>は、<会いたくない>の意味だと捉えていた私は、慌てて弁解した。
「ごめん、覗き見をするつもりはなかったんだけど――」
「いいから、良かったら見ていかないか」
いつもと同じように微笑んで、いつものように私に練習を眺めることを促す。そんな言葉が返ってくるとは思っていなかったおかげで、私の口から「えっ」と素っ頓狂な声がこぼれる。
「あ、何か用事があるのか」
彰が私のことを心配してくれるのはいつものことだけれど、今日だけは、何だか変な感じがした。「ううん、何もない」とだけ言って、私はフェンスの向こう側に入っていった。
***
「気にしてたんだろ?」
額の汗を服の裾で拭った彰は、目線だけをこちらに向けた。
バスケットコートの脇にあるベンチにふたり並んで腰かけて、長く伸びたゴールの影を眺めている。彰の汗が西日できらめいているのを見て、飲み物でもタオルでも、何か持ってくればよかったと思った。
「俺が<会えない>って返信したこと」
「だって――」
今日の出来事を思い出して、どうやって話せば、それとも、どこまで話していいのか悩んだ。うつむいて、あまり彰の気分を害さないようにと落ち着いた声で伝える。
「今日の試合のこと……」
しばらく間があって、それから笑い声が隣から聞こえてくる。驚いた私が顔を上げると、彰は冗談を言う時のように笑いながら私の背中をポン、と軽く叩いた。
「俺より
夢子がガックリしてどーすんだ」
もしかして、私の心配は杞憂だったのだろうか。それとも、無理に平気な振りを――後者は絶対に違うとは思っているけれど、一応、彰に訊き返す。
「彰は……ガックリしてないの?」
「そうだなぁ……ま、確かにインターハイ出場できないのは悔しいけど」
きびしい顔を少ししてみせた後、もう一度微笑んだ。
「俺もまだまだってとこだな」
「彰が“まだまだ”……?」
「そう」
簡単にそう言いのけてしまったのが気になって、「それじゃ、他の人はどうなっちゃうの」と訊いてみれば、彰は「さあな」と回答を放り投げてしまう。……やっぱり、いつもの彰だ。
無責任ともとれるこの返しに、私は彼が
本当にいつも通りであることを悟った。それに気付くとどうも嬉しくて、あの仙道彰が私の隣にいることが嬉しくて、笑みがこぼれてしまう。
「どうした?」
「ううん」
反対側のゴールを見つめて、わざとらしく彰から顔を反らした。
今、この喜びに浸っていることを知られるのが妙に恥ずかしかった。目を閉じれば少し遠くにある海の音も聞こえるような気がして、体中が満ち足りているような気分になる。
けれど、ひとつ、確認しておかなければならないことがあった。
「じゃあ、<会えない>っていうのは――」
そう言うと、彰は黙り込んで遠くを見る。何か考え事をしているらしい。
やっと考えがまとまったのか、次は目線を下に向けて口を開いた。
「それは、今日、
夢子に会ったらダメな気がしてたからだ」
「ダメ……? 何が?」
顔を覗き込むようにしてさらなる説明を求めれば、彰はしぶしぶ言葉を続ける。
「……さっきは俺も、そこまで気にしてないとは言ったけど、全くって訳じゃない。やっぱり、悔しいもんだ。だから」
彰は顔をこちらに向けて、申し訳なさそうに笑った。
「そんな時に、優しく慰めてくれる
夢子なんかに会ったら、俺、止まらないと思って」
止まらないって、何が?――と訊きそうになったけれど、彰の目を見ればその意味がすぐさまわかった。ごくりと唾を飲み込むと、彰は思い出したように言葉を加える。
「……あ、でも、もう大丈夫。ちょっとバスケットしたら、なんかスッキリしたから」
“発散”……この2文字の言葉が瞬時に頭に浮かんだ。“この男は、三大欲求よりもバスケット欲の方が上回るんじゃないか”と思ったこともあるので(彰には内緒だけれど)、まあ、少し分からないでもない。
「そう、なら良かったよ……」
なんとも言えない言葉を返して、もう一度ふたりに無言が訪れた。
言葉もなくただ肩を並べているのも心地が良いけれど、その静寂を破ったのは彰の方だった。
「あー、やっぱり前言撤回」
頭をかきながら呟いて、こちらを向いた彰と目が合う。
「インターハイ予選、頑張ったってことで」
頬に手を添えられたかと思えば彼の顔が近づき、気付けばキスをしていた。熱い唇が名残惜しむように離れて、伏し目がちな視線がゆっくりと重なった。
「やっぱりダメだ。我慢できないかもしれない」
一転して、冗談めかしてそう言う彰。誤魔化すように笑うけれど、誤魔化したいのは正直こっちの方だ。
彰が率直な胸の内をほんの少し明かしてくれたこと、その時の悔しさが滲んだ顔を初めて見て、グッときた。いつもはマイペースで楽観的な人間に見える彰が、あんな表情もできるということに私は心を揺さぶられたようだった。
そして、試合の中でいくつも見つけた彼のかっこいい姿に、私はずっとドキドキさせられている。
我慢していたのは、本当は私の方かもしれない。それなのに、彰は何も知らないようなふりをして私の心の封印を解いていく。
「明日……休みだっけ」
「うん……」
少しずつ余裕がなくなっていく表情に、私はどぎまぎとするしかなかった。
もう一度キスをしても良かったけれど、もう一度してしまえば、歯止めが効かないような気がしていた。このままこの場で……というほど判断力は鈍っていなくても、いよいよというところまで私は彰の魅力に溺れかけている。
「……とりあえず、帰ろーか」
そう言って腰を上げた彰。もう暗くなりかけているバスケットコートに黒く長い彼の影がぼんやりと浮かんだのを見て、なぜか胸が苦しくなった。……どうにも、止まらない気がする。
END