夢子は焦っていた。
 初めて訪れた体育館――インターハイ会場。知人が出場するということで友人と男子バスケットを見に来た彼女は、すっかり道に迷ってしまっていたのだ。
 全国大会の会場になるぐらいであるため、コートとして用意されている面積はもちろん広いのだが、その分体育館そのものが大きいのなんの。大型ショッピングモールならまだしも、体育館に「現在地」などと赤い点が打たれた地図があるはずもなく、夢子はまんまとこの巣窟に囚われてしまった。
 一番の原因は、数階建てになっていることだ。高校などの体育館しか馴染みのない夢子は、立派な体育館に圧倒されながらも、今自分が一体何階にいるのかさえ分からなくなってきていた。
 同じ制服やジャージを身にまとった高校生らしき人が、楽しそうに会話をしながら“目的を持って”どこかに向かっていく様さえ羨ましく思える。「南側のスタンド席にいると思う」と言っていた友人を呼び出すすべもなく、トイレのために抜け出てきたことを後悔した。
 仕方がない。恥ずかしくても人に訊かないと、もう元の場所に戻れないかもしれない――夢子はそう思うと、少し緊張した。混乱でカラカラになった喉を潤すため、近くにあった無料のサーバーで水をもらうことにした。
 紙コップに口づけながら、誰に話そうかとちらりと周りを見ていると――ドン、と誰かがぶつかってきた。口に当てていた紙コップがブレてしまう。
「すみません」
「すみません!」
 夢子の目の前には、紫と黄色の服。胸のあたりに書かれた“K”という文字、特徴的な配色。そして――背が高い。
 途端に、目の前の人物がインターハイ出場校の選手であると気付いた夢子は、慌てて「ユニフォーム!」と叫ぶ。
 ユニフォームが濡れてしまってはいけない。ジャージからしみ込んでしまう前に、どうにか拭いてしまわないと……そう思った夢子は、持っていたまっさらなタオルを取り出し、「すみません、今拭きますから」と相手の許可も得ずにファスナーを下ろした。

 しかし、そこにはユニフォームなどどこにもなく――よく日に焼けた、褐色の肌だけがあった。

 鍛え上げられた筋肉質な胸板、そしてそれに連なる立派な腹筋を見て、夢子は一気に顔が赤くなる。一番は驚きから。次に、じわじわと湧き出てくる恥ずかしさから。
 夢子は自分がしでかしてしまったことがいかに恥ずべきことなのかに気付くと、思いきりチャックを上げた。ジッ!と、ファスナーが立てるにしては珍しい音が、気まずい空気をも切り裂く。
「まさか、下、何も着ていないとは思わなくて……」
「あ、ああ……確かに、何も着てはいないが……」
 夢子とぶつかり、ジャージを濡らされ、そして「すみません」などと言いながら突然ファスナーを下げられた人物――牧紳一は、驚きながらもなんとか言葉を返した。
「本当にすみません! 別に、悪気があったんじゃなくて、変なことをするつもりはなくて、その、てっきり選手だと思ったので、ユニフォームを濡らしたらいけないと思って、拭こうと思って……」
 しどろもどろに、このような行動に至った理由を述べる夢子。現在の状況をうまく把握できないでいた牧だったが、うつむきがちの夢子が耳まで赤くなっているのを見て、何だか申し訳ないことをしてしまったと思った。いつまでも顔を上げて目を合わせようとしない夢子が、今、どれだけ恥ずかしい思いでいるのか想像するのは容易いことだった。
「オレも前方不注意だったので、あなただけが謝る必要はありませんよ」
 ……実のところ、牧もこの体育館の中で迷っていたのだ。
 一応全国区の“神奈川の帝王”がこんなところで迷っている姿を見せるわけにはいかなかったのだが、迷っているものは迷っているのだから仕方がない。今来た道を思い出しつつ、少し遠くを見渡しながら歩いているところで、壁際で水を飲んでいる夢子にぶつかってしまったのだった。
「それに、こぼしたのは水、ですよね? 今日は暑いし、そのうち乾くはずだと思いますよ」
「そう言っていただけると……」
 そう言って、夢子はやっと顔を上げ、ぶつかった相手の顔を見た。思っていたよりもかっこいい顔に、ドキリとする。大丈夫、という意味も含めて牧は軽く微笑んだのだが、夢子はその表情にさらに顔を熱くする。目がばっちりと合うのは一対一で話している以上当たり前のことなのだが、顔が徐々に赤くなる様まで見られていてはたまったものではない。
「そ、そうだ! 良かったらお詫びに飲み物でも――」
 バッグに入れていた未開栓のスポーツドリンクを取り出す。
 友人の応援という名目で来た夢子は、後から差し入れをする用として、いくつか予備の飲み物を持って来ていた。会場の自販機の飲み物は大抵なくなってしまう、という友人からのアドバイスを聞いてのことだった。
 突然ドリンク缶を差し出された牧が少し目を見開いているのを見て、夢子は「あっ!」と何かを思い出したようにする。
「冷えている方がいいですよね、今、買ってきますから」
「それは申し訳ない」
「でも……」
「これくらい、大したことではないですよ。お気になさらずに」
 歯切れの悪い夢子が「だったら、せめて」とスポーツドリンクの缶を差し出してくるのを見て、牧は素直に受け取った。常温のぬるい缶が、手のひらに収まる。牧が缶を見つめていると、夢子は「本当にぬるくてすみません」と申し訳なさそうにした。
「ご迷惑をおかけしました……それじゃあ、頑張ってください」
 夢子は頭をぺこりと下げると、急いでいる風を装って、慌ててその場から走り去った。当然、どこに向かえばいいのか、そもそもどこに向かっているのかさえ彼女には分かっていなかったが、とにかく恥ずかしいという一心から、その場を離れようとしたのだった。
 恥ずかしいので、できれば二度と会いたくないと思いながら館内を歩いていると、いつの間にか元いたスタンド席付近まで来ていた。友人の姿を視界におさめて、夢子はホッとした。

 一方、その場に残されたような牧は、ファスナーを突然下げたかと思えばドリンク缶をくれ、さらには突如消えていった夢子を不思議に思っていた。
 彼女が視界から消えてもその先をぼーっと見ていれば、後ろから声が掛かる。
「どうしたんすか、牧さん」
 濡れたジャージに、半端に上げられたファスナー。振り向いた牧は「清田か」と返しはしたが、いつもの迫力に欠けるようだった。神奈川の帝王らしからぬ姿に、清田は疑問の目を向ける。
 見れば、手にはスポーツドリンクの缶が。
「スポーツドリンク、買いに行ってたんすか?」
「あ、ああ、まあな」
 しかし、それから先の言葉が続かない。いつもならば少し自分をからかうような言葉をかける牧がだんまりなのは、はっきり言っておかしかった。
 しまいには、「これ、おまえにやるよ」と手にしていたスポーツドリンクの缶を清田に渡してしまう。
「えっ、いいんすか! ありがとーございます……って、ぬるっ!」
 自販機で買ってきたにしてはぬるすぎる缶の温度に、「これ、どうしてこんなに――」と清田は訊こうとしたが、牧が答えることはなかった。
「……悪い、清田。用事ができた」
 そのままどこかへと慌てて走っていく牧を見て、再び疑問を抱いた清田だが、数秒後にはその理由が思い浮かんだ。
 ――ははーん、牧さん、やっぱり全国区のプレーヤーだからやっかみで喧嘩でも売られたんだろうな。服も濡れてたし、「お詫びに」とかいって、ぬっるいスポーツドリンクを押し付けられたんだ……

「と、いうことは……牧さんが危ない!」

 てっきり、牧は喧嘩を売ってきた相手に宣戦布告をしに行ったのだと思った清田は、もし相手が牧に対して何か暴力でも振るったら大変だと思い込み、忠犬のようにして牧の後を追いかけていったのだった。


END