「
夢野、数学の課題が出てないぞ」
机の上のノートとにらめっこをしていると、頭上からクラスメイトの声が降ってくる。顔を上げれば、おそらく私以外のクラス全員分のノートを抱えた牧くんが紙をひらひらとさせていた。
その紙をよくよく見れば、私の名前が記された行の欄だけ丸がついていない。空欄を目の前にしても、今の私にできることは言い訳をすることだけだった。
「ごめん、ちょっと終わりそうになくて……」
数学が大の苦手の私は、はなから課題提出を諦めて課題に手をつけなかった……というわけではなく、頑張って問題を解こうと手をつけてはみたもののさっぱり分からず、今の今まで課題を終わらせることができずにいた。
すがるようにして友達に聞けば、親切にも教えてくれた。けれど、いくら説明を聞いても私が理解できないでいるものだから、みんなお手上げといった状態で教師役を辞退していってしまう。そして、今日に限って職員会議があり、最後の駆け込み寺である数学の先生に訊きに行くこともできないでいた。
抱えていたノートの山を机に置くと、牧くんは私のノートを覗き込む。
「まだ、そこをやってるのか」
馬鹿にしているだとか、呆れているだとか、そういった考えは含まれておらず、私が未だにこの<問2>にてこずっているのを不思議に思っているような声音だった。へいへい、そうですよ、私は“まだ”ここを解いているんですよ……などと言えるわけもなく、苦笑いで「そうなの」と返すことしかできなかった。
クラスメイトである牧紳一くん――彼はここ、海南大附属高校バスケットボール部の部員であり、多くの人に慕われるような人物でもある。
ご存知の通り、スポーツ系の部活動というのは学校内のヒエラルキーの上に存在している。そして、その中でもバスケ部は全国でも強豪らしく、全校朝会の表彰式の常連といったところ。
そんなバスケ部の部員であるというだけでも人々の関心を集めるのだけれど、加えて、牧くんは寛大な態度と大人びた雰囲気を持っている。学内には、彼のファンであるという女の子は少なくない。今年初めて同じクラスになったけれど、どうやら勉強もできるようで、まさに非の打ちどころがない人物だ。
一方、私は、特に何か部活をするわけでもなく、なんとな~く高校生活2年目に突入してしまった。何かに打ち込んでいるって素敵だなぁと思いながらも、別段難しいわけでもないはずの数学の課題にさえてこずっている、この有様だ。
「とりあえず、クラスの分はもう持っていくからな。終わったらちゃんと出しとけよ」
まるで先生に言われているような気分になって、私は「うん」と真面目に返事をする。そのまま牧くんが教室から出て行ったのを見て、放課後居残りコースか、とため息をついた。
***
一体全体、どーして数学ってのはこうも難しいのだろう。
私が数学のことを好きだろうが嫌いだろうが、彼らは問答無用に数字の羅列を自慢するように見せびらかしてくる。知りたいと思っていないことでも何かの公式を使って導き出さなければならないし、必要性を見出せないことでも何かを証明しなければならない。
まるで個人の意思を無視したような問題たちに、私はいつだって敵意丸出しだ。……だからこそ、いつまでたっても数学から「苦手科目」という二つ名を撤回することができないのだろうけど。
一向に解き終わる気配のしない数学の問題と向き合っていると、ガラガラと引き戸の音を立てて誰かが教室に入ってきた。
「まだいたのか」
その声に顔を上げれば、とっくに帰ったか部活に行ったはずの牧くんが驚いたような顔をしてこちらを見ていた。
“まだ”残ってて、悪うござんした……と、これまた言えるわけもなく、「終わらなくて」と板についてきた苦笑いを見せる。
「牧くんこそ、どうしたの?」
「ちょっと忘れ物をしてな」
そう言って自分の席のところまで行くと、引き出し部分を覗き込んでノートらしきものを取った。
……ふうん、帝王も忘れ物はするのね。
正直、彼は高校生離れ(注:決して、顔のことを言っているわけではない。決して)した人物だと思っていたので、いかにも学生らしい場面に遭遇したことは意外性とともに、貴重だ!という特別感を私の心に抱かせた。
クラスメイトとして過ごす分には、あまり彼の素の部分を見る機会はない。このクラスになってから何度か席替えはしたけれど、隣の席はおろか、グループ活動で同じ班になるような近くの席になったことも未だになかったし。
牧紳一――彼は一体どのような人物なのか。今、初めて、彼の人物像を捉えよう躍起になっている。
しかし、牧くんは気取ることもなく、あくまで自然体だ。
「どれどれ」
そう言って、当たり前かのように机を覗き込んでくる。
言い忘れていたけれど――牧くんが女の子からキャーキャー言われるのは、彼の顔がかっこいいから、という立派な理由もある。
いつの日か、女子トイレの鏡の前で「牧くんのあの涙ぼくろがいいのよね」なんて言っていた女子がいたのを思い出したけれど、私は今、それをばっちり見ている。日に焼けた肌の中でも、抜群の存在感を放ったそれを。
もし、「牧くんの涙ぼくろの大きさ、教えてあげようか?」なんて得意げに言ったら、私は女子の反感を一度に買ってしまうだろう……なんて、ふざけたことを考えながら左目のすぐ下のほくろを見ていると、彼の黒目がこちらを向いた――思わずドキリとする。
「ペン、借りてもいいか?」
「え?」
ドキリとしたことがいまいち信じられない私は、気のせいだ、と無理矢理心を静める。
「良かったらペンを貸してもらいたいんだが」
「あ、ペンね!」
慌てて筆箱をごそごそとし、シャーペンを差し出す。一体何をする気なのかと思って見ていれば、牧くんは私のノートに数式を書いていった。
「ここはだな――」
何、勝手にノートに書いてるんだ、なんて心の中の突っ込みをする暇もなく、ほんの5分の牧くんの説明で、<問4>は見るも無惨に暴かれてしまった。ノートの上に導き出された答えを見ながら、思わず「すごい……」と感嘆の声がこぼれてしまう。
「牧くんの説明、先生より分かりやすい……」
「そんな風にいうと、教師が泣くぜ」
そう言って口角を上げた牧くんの姿は、「冗談も言えるんだ」なんて、問題が解けたひらめきと同等の衝撃を私に与えた。お堅く真面目な(ように見える)彼の辞書には、“冗談”という言葉は載っていないと決めつけていたからだろうか。
牧くんには悪いけれど、正直言って、彼みたいな完璧人間は私みたいな勉強ができない人間を馬鹿にしているだけなのだと思っていた。今は、接点がほぼ無いようなただのクラスメイトだからいいものの、もし私が男子で、バスケ部で、ことあるごとに彼の足を引っ張っていたら……注意されるどころか、お話にならないレベルの能力に憐れみの眼差しを向けてもらうことが精一杯だろう。
それなのに、いや、そうだと思っていたのに、居残りレベルの私にまでこんなに丁寧に教えてくれるなんて。それもとっても分かりやすいし、なんて親切なんだろう。
もしかしたら、私は牧くんのことを一方的に評価していて、彼がいかに素晴らしい人物なのか知らなかっただけなのかもしれない。事実、彼のことを知ろうとも、知りたいとも思ったことはなかった。
けれど、今なら彼がいかに様々な場面で人々の信頼を得ているのか、その理由までも分かるような気がする。
奇跡体験(普通の数学の問題が解けただけだけれど)をした気分の私は、ぜひとも牧くんにもっと教えてもらいたいと思った。私は一体、どうして今までこんな簡単な問題を解けなかったんだろうと思うぐらいに彼の説明は単純明快で、それでもって丁寧だったから。
「よかったら、ここも教えてもらえないかな――」
一度は目を通した応用問題――文章を読んでも、今までの基本問題を参考にしても全く意味の分からなかった問題を、私は勢いよく牧くんに指し示した。
***
応用問題という巨大な壁を牧くんの力を借りて登り切った……いや、乗り越えた……いやいや、粉々に砕いてしまった私は、今までにない満足感に包まれた。苦手な数学をノックダウンしてやった気分で、今なら、どんな問題もどんとこいだ。まあ一応、“牧くんの説明付き”というハンデが許されるならばだけど。
牧くんも、忘れ物をしたばかりに偏屈な頭を持つ私に捕まり、部活であるバスケットもそっちのけで私に数学を教える羽目になり――
って、そうだった!
牧くんは、部活の途中で忘れ物を取りに来たんじゃないの !?
その事実を裏付けるような練習着を改めて見て、私は慌てて「ごめん!」と謝る。
「牧くんが部活を抜け出してきたことすっかり忘れてた!」
「ん? ああ、そうだった」
牧くんは教室の時計をちらりと見ると、気にするなと言わんばかりに「オレもすっかり忘れてたな」と苦笑いした。
その様子を見て、先取りした不安が私の頭の中で一気に膨らみ出す。
「どうしよう、『私が無理矢理引き留めました』って監督に謝りに行った方がいい !? 」
「おいおい、そこまで
夢野が心配することじゃないぜ」
牧くんは平気そうな顔をしてみせるけど、バスケ部は全国レベルなんだし、ただのクラスメイトが自分の勉強のために足止めをしていたなんて知られたら、ブーイングの嵐だ。そんなのはいやだ! 絶対にいやだ……!
こんな超・自己中心的な願いを私が抱いているともつゆ知らず、牧くんは「とにかく、大丈夫だ」と言う。
「そんなに厳しいわけじゃない、オレも適当にごまかしとくさ」
「だけど、牧くんに嘘をつかせるのは――」
――どうも、悪いことをしている気がする。牧くんの口から、彼の意志に従わない虚偽の言葉を出させるのは、どうも背徳感があるというか……とにかく、言い訳をしている姿は牧くんには似合わない。これは断言できることだ。
そして、変なところで牧くんに借りをつくりたくない……正直なところ、この気持ちの方が強い。だって、
あの牧紳一だし、これから私は、彼に一生頭をあげることができなくなるかもしれない。
どのみち“不安”の2文字を顔にベッタリと張り付けているであろう私の顔を見て、牧くんは小さく息を吐いた。
「……ま、サボってると思われたら、スタメンから外されかねないしな」
……何? “スタメン”とやらから“外される”……?
詳しくはわからないけれど、なんとなく悪いことを意味しているのは理解できる。
ああ、神様仏様、バスケ部の監督様、どうか彼を、牧くんをスタメンとやらから外さないでください……! 私には、そのスタメンから彼が外された責任を負うなんて、とても重そうで、負うことなんてとてもできそうにありませんから……!
またまた、私がこんなことを心の中で思っているとも考えていないだろう牧くんは、不安げな顔をしているであろう私を見て、いたずらに口角を上げた。
……ちょっと待てよ。彼らしくない妙な軽さがにじみ出た笑みに、嫌な予感がする。
冗談でも、「スタメンから外されたら
夢野のせいな」などと言わないでほしい。そんなことを言われてしまえば、私はあまりの恐ろしさに、必死に解いた数学の問題が書かれたノートもほっぽり出して、このまま逃げ出してしまうだろうから――
「やっぱり、
夢野に監督に対して弁解してもらうか」
「え……本当に?」
そりゃ、私が牧くんを引き留めたのは間違いなく事実だし、牧くんがそう言うのであれば、私は謝りに行くけど、行くしかないけど……でもやっぱり、できれば行きたくないというか……
「冗談だ」
「え?」
私の目が喜びで光ったのに気付いたのか、牧くんは「いや、やっぱり本当だ」とわざとらしく真面目な顔をして言う。
「一体、どっち――」
困ってしまった私が焦りから口を挟めば、彼は笑う。
「冗談だ、冗談。
夢野の表情がコロコロ変わるから、面白くてな」
翻弄されて気の抜けたような私をそのままに、一人楽しげな牧くん。そして、置いてけぼりされたような気分の私。笑顔で柔らかい雰囲気になった彼を見ながら、彼らしくない姿と言動に頭の中がぐちゃぐちゃになる。
けれど、牧くんはその流れのまま教室から出て行こうとする。「それ、忘れないで出して帰れよ」という声を聞いて我に返った私は、慌てて言葉を返す。
「う、うん! 教えてくれてありがとう。本当、助かったよ。練習頑張ってね」
牧くんは言葉もなく頷いて、こんなところにも余裕が滲み出ているな、としみじみ感じた。
と、引き戸に手を掛けたところで振り返る。
「明日の放課後、空いてるか」
「……何か、あるの?」
突然の質問の意図が分からない私が訊き返せば、牧くんは片方の口角を上げる。
「明日はバスケも休みなんだ。
夢野が良ければ、数学、教えてやってもいいが」
どうだ、と言わんばかりの目で見つめられると、正直、断れない。
けれど――そんな圧に押されるようにしてではなく、私の中には、牧くんに教えてもらいたいと素直に思う気持ちがあった。あんなに分かりやすい説明があるならば、次のテストで百点も夢じゃないし、数学から「苦手科目」の二つ名を外す日が来るかもしれない。
そして、ほんのちょっぴり、あの牧くんと放課後勉強会ができるという嬉しさもあった。
「牧くんがいいなら、喜んで……」
恐るおそる返せば、「そうか、わかった」と案外あっさりした答えが返ってくる。ガラガラと引き戸を開けて教室の外に出ると、牧くんはもう一度振り返った。
「じゃあ、また明日な。遅くならないうちに帰れよ」
「うん、またね」
そう言って手を振りながら、牧くんを見送った。
一人、静かな教室の中で余韻に浸る。
牧くんの新たな一面に気付いたからか、彼のことに少しだけ詳しくなった気がする。学校中の牧くんファン、すみませんねぇ……とふざけた考えごとをしながら、私の視線は自然と机の上へ向かう。
ノートの上に転がる、2本のペン――そんな何の変哲もない光景を目にして、私は確かに嬉しくなった。
END