「仙道、くん?」
休日、一人で海釣りをしていた仙道に声を掛けたのは、クラスメイトの
夢子だった。
「……ん?」
仙道が振り向けば、
夢子は「やっぱり仙道くんだ」と顔をほころばせる。そして、防波堤の先端――仙道のもとへと歩み寄った。
「まさか、こんなところで会うなんて」
「
夢野の方こそ、どうしてこんなところに」
釣りのスポットとして有名な場所にどう見ても釣りに興味のなさそうなクラスの女子がいることは、仙道に疑問を抱かせた。
その格好を見たところ、決して釣りをしに来たようには思えない。そして、水着で楽しめるような砂浜があるならまだしも、ここには長く連なったコンクリートの防波堤か無造作に積み重ねられたようなテトラポットしかないのだから。
簡易イスに腰掛けたままの仙道は、隣に立っている
夢子を見上げた。彼から無言の質問を受けると、
夢子は「お父さんについてきたの」と微笑む。そして、「向こうの堤防の方でやってる」と、遠くを指差してみせた。
堤防に並んで釣りをしている人々も、ふたりがいるところからでは米粒ほどの大きさにしか見えないが、時折、その小さなかたまりが動いているのは分かった。それでも、いくつかあるかたまりのうち一体どれが
夢子の父親なのか仙道には分かるはずもなく、彼はひとまず「そうだったのか」とだけ返した。
「かわいい猫がいたから追いかけてたんだけど……そうしたらこんなところまで来ちゃって。でも、まさか仙道くんに会うなんて思わなかった」
思わぬクラスメイトとの出会いに自然と笑顔になる
夢子。父親については来たものの暇を持て余していた彼女は、「隣、いい?」と訊く。仙道が「ああ」と頷いたのを見て、
夢子はコンクリートの上に腰を下ろした。
いくらクラスメイトといっても特に仲が良いというわけではないふたりには、これといった話題が見つからなかった。
「好きなの? 釣り」
「ん……まあ」
曖昧な回答をして、それから仙道は大きなあくびをしてみせる。
夢子には、このあくびの方が先程の返事よりも彼の気持ちが込められたものであるように思えた。そうして「ごめん」と一言謝った彼は、ただ釣竿を持って、何となく時間が過ぎるのを待っているようだった。
制服姿か時々見かける練習着姿の仙道しか見たことのない
夢子は、サンダルにポロシャツ、チノパンといったラフな格好の彼を新鮮に思った。よく、休日を“オフ”と形容することがあるが、彼の場合は、彼を動かす全ての機能を本当にオフにしてしまったようだった。そんな中でも、逆立ったツンツン頭と何を考えているのかよく分からないような雰囲気だけは、いつもと変わりがなかったが。
「バケツとか無いけど、釣った魚を持っては帰らないの?」
本当に釣竿と体一つで来たような姿の仙道をまじまじと観察して、改めて浮かんだ疑問だった。
すると、仙道は顔だけを
夢子の方に向け、得意げに微笑んでみせる。
「<キャッチ&リリース>が俺のモットーでね」
そう言って再び海を眺めてしまった仙道だったが、
夢子は「なんか仙道くんらしいかも」と思った。
大きい魚を釣るために万全の準備をしてから張り切って朝早く海にやって来た父親とは違い、暇だったからふらふらと海にやってきたような仙道。どちらが悪いということではなく、
夢子にとっては、後者の方が魅力的に思えた。
何か大きな成果があるわけではなくとも、この海を眺めながら時折魚がかかる感触を楽しむ様は、まるで何らかの玄人のよう。
そんな仙道の隣に座っていると自然と口数が減り、一緒になって黙って海を眺めていたい気分になる。ふたりがいるこの防波堤だけ、大海原に放り出されたような感じがしてくる。
しかし、決して孤独というわけではなく――充足感の薄皮に包まれたまま開放感に身を任せたような、初めて味わう感覚だった。
もしも、自分たちの住んでいる場所から近いのが海ではなくて、山だったら……きっと彼は、草を咥えて野原に寝っ転がりながら、ゆっくりと動く雲の様子をぼーっと眺めているだろう。途中で飽きた自分が花摘みに出掛ける様子さえ、
夢子には想像できた。
仙道の隣は、心地が良かった。
***
夢子は、一体どれぐらいの時間が流れたのだろうかと思った。そんなに長いこと黙っていたつもりはなかったが、それにしてはあまりにも多くの考え事をしてしまったような気がする。
ちらりと仙道を見上げる。ポロシャツの肩越しに、何色にも染まっていない表情の彼の顔が見える。
……言うべきか、言うまいか。
沈黙に慣れ過ぎた
夢子は、ふと頭に浮かんだ話題を口にすべきかためらった。少し、悩んだ。
しばらくしてからもう一度仙道を見上げ、そして、恐る恐る口を開く。
「……実はさ、バスケ部の試合を見に行ったことがあるの」
彼女の声に含まれた、言葉の内容に反するような仰々しさ。そのアンバランスさに仙道は、ハハ、と笑った。
「そんなに神妙に言うことじゃないだろ」
「神妙……って、そんなに変だった?」
「ああ、変だった」
今までの無言が記憶の中から消されたような仙道の振る舞いに、
夢子は自分のペースを乱された気分になる。沈黙が、ただ険悪だけにつながるものではないのだということを彼から示されたようで、彼女は盲点を突かれたような感じがしていた。
「……とにかく、試合を見たの。仙道くんがあんなに活躍してるところを」
そう言いながら、
夢子は見に行った試合の印象深かった場面を思い出す。
――大勢の観客で埋め尽くされたスタンド。
スポーツウエアの、おそらくバスケ部であろう人たち。学制服を着て、お目当ての誰かを応援しにきたような学生。はたまた、親に連れてこられたのか、暇を持て余しておもちゃで遊び始めている子ども。腕を組んで、コートに真剣な眼差しを向ける大人……様々な人が座る観客席は、ひとたび試合が始まると一体感を持ち出して、試合の細かな出来事に重厚な反応をみせる。高校名を力強く叫んだり、選手に対して黄色い声援を送ったりして、観客席にまでコート上の熱意が伝播したようだった。
バスケットのルールが分からなくても、選手たちのプレーの華やかさに惹きつけられ、有り余る元気にこちらまで力がみなぎってくる。会場中が熱気に包まれて、なんと燃え上がるような試合が繰り広げられるのだろうか……
夢子は思った。
友人になんとなく連れられて見に行った彼女だったが、試合会場を出た後、「見に行って良かった」とはっきりと感じた。
そして、観客席からは小さく見える選手も、ロビー付近ですれ違うととても大きく感じたことも印象に残った一つだった。
「観客席の人がみんな、仙道、仙道、って叫んでて……有名人なんだね」
多くの人が自分の名前を知っていて、一挙手一投足に期待の眼差しを向けていること――それは、これ以上ない素晴らしいことだと思っていた
夢子は、賞賛の言葉を口にしたつもりだった。
しかし、彼の反応は想像していたものよりも素っ気なかった。「そうかな、ありがとう」と微笑みはしたが、それ以外に言葉を付け加えることもなく、ぶつ切りの喜びを見せつけられたようだった。
すごいだろうと自慢げに言ってくるようなキャラではないと思ってはいたが、これしきの誉め言葉など気にも留めないようなクールな人物でもないはず。真顔に耐え切れないように微笑んで、心をじわじわと嬉しさで染め上げられたような喜び方をするのだとばかり思っていたのに。
少し拍子抜けした
夢子を尻目に、仙道は、ひょいと言葉を返す。
「ちなみに、どの試合?」
「えっと、先月見に行ったんだけど……」
「先月、は……試合づくめだったからなぁ」
インターハイ予選大会が開催されていた先月は、インターハイ出場を決めた海南、湘北をはじめ、武里とも決勝リーグで戦った。あるいは、湘北との練習試合のことを言っている可能性もある。
「確か、相手チームに日焼けした人がいたような――」
「……海南だな」
一筋縄ではいかせてくれなかった海南の牧のことを、仙道は思い浮かべる。バスケット界では“神奈川の帝王”とも称される彼を“日焼けした人”呼ばわりするのが少し面白く感じたのは、彼だけの秘密だ。
「それで、あの試合の最後の方かな? 確か、延長戦になったよね。その時、仙道くんがその日焼けをした人が追い付いてきたのにシュートを決めた時、すっごく鳥肌が立った。あれ、ダンクシュートって言うんだっけ?」
相変わらず海を眺めつづける仙道の横顔を見ながら、
夢子は素直な感想を伝える。
「バスケットを授業でしかしたことがない人間からしたらさ、ドリブルしながらどうやったらあんなに早く走れるの? って感じで――」
しかし、仙道の顔は、またもやそんなに嬉しそうな顔をしていなかった。どちらかというと、無関心だと言わんばかりの顔をしていた。自分のことだというのに、ただのラジオを聞き流しているかのように、味気ない顔をしている。
別に、自分が褒めたことに対して大袈裟に喜んで欲しいなどという押し付けがましい感情を
夢子が抱いているわけではなかった。仙道が、自分のことに対して何も思っていないような態度をとることが不思議でたまらなかっただけだった。
そして、その態度は、彼の関心がもっと違うところにあるが故のように思えた。
その時、
夢子は、陵南はインターハイ出場を逃したことを思い出した。彼女は陵南対海南の試合しか見てはいなかったが、そのことを友人から聞いてはいた。
仙道があまり喜びを見せないのはきっとそれが理由で、これ以上敗北の事実を掘り返してほしくないのだろう――そう思った
夢子は、自分が申し訳ないことをしてしまったことに気付き、途端に焦った。胸のあたりがモヤモヤとして居心地が悪くなり、ここから立ち去りたくなった。
「……ごめん、私ばっかり話し過ぎちゃった。とりあえず、すごかったってことを伝えたくて」
弁解気味の言葉を並べながら立ち上がり、ズボンについていた砂を手で払う。様子をうかがうようにして仙道を横目で見て、それから別れの言葉を告げた。
「じゃ、また学校でね」
「……ん? ああ、また」
仙道が思い出したように手を振ったおかげで、
夢子は新たな疑惑を抱いた。
……もしかして、今までの話は全然耳に入っていなかったのでは?
もしそうであったら、彼が他人事のような顔をしていたのも、あまり感情を顔に見せなかったのも納得できた。仙道の極端なマイペースさは彼の特徴でもあり、この予想はあながち外れてはいないように思えた。そして、自分の発言が彼を傷つけてしまったと思わずに済むのも助かった。
しかし、どのみち私はお邪魔だったのかもしれないな……彼女はぼんやりと思った。
***
夢子はしばらく歩くと振り返って、小さくなった仙道を見た。
……彼はあんなにぼーっとして、大丈夫なんだろうか。
あの日、試合で見た仙道の姿を思い浮かべると、とても同一人物には思えなかった。そして、学校で見かける時よりも、さらにも増してぼーっとしている気がする。
人の話を聞いていないのは問題的だが、あまりにも自分の世界に入り込んでいるものだから、注意するどころか、話し掛けたこっちの方が悪いことをしてしまったかなというような気分にさせられてしまう。
それでも、隣にいると心地よく感じてしまうのは、一生かかっても解けない、難解な謎のようだった。
あのまま高波に飲まれてしまうんじゃないだろうか……などとふざけたことを考えていると、
夢子は先程まで追いかけていた猫を見つけた。
驚かさないようにとゆっくり近寄ってみれば、魚をくわえている。「お前にはやらん」というような目をして、彼女を見ていた。どこからか盗んできたか、それとも誰かからもらった魚を取られてしまうと思っているのだ。
夢子はその光景を目にして、不思議と笑いたくなった。
「よかったね」
言葉は分かるはずもないのだが、
夢子は猫に対してそう声を掛けた。そうして、その猫にかまうことなく父親のもとへと戻って行った。
END