コーヒーの入ったマグカップを2つ持ってソファに座る。久しぶりにふたりの休日が揃ったおかげで、こうやって隣に彼が座っているのは嬉しい。
「はい、コーヒー」
ローテーブルにマグカップを置けば、「ああ、ありがとう」と視線もくれずに返事をする。どうやら彼は、熱心に雑誌を読んでいるらしい。
彼がここまで熱心になって読むものといえば大抵は学術雑誌なので、そういう時はやっぱり優秀な科学者なんだな、なんて尊敬するのだけれど……覗き見てみれば、なんと漫画。そういったものには一切興味の無い人だと思っていたけれど、その熱心な具合を見れば彼はやっぱり好きなのかもしれない。知らなかったなぁ。
……でも、ちょっと待てよ?
私はもう一度覗き見て、その漫画の雰囲気を確かめた。線が細くて、大きな目をキラキラとさせた女の子がいて、シュッとしたイケメンが女の子に手を差し出していて……って、これって少女漫画じゃない !?
「ね、ねえ、何読んでるの?」
「ん~?」
すっかり熱中していた彼は無意識のうちに私を焦らすと、区切りのいいところまで読んでから「今月のうるるん」と至極当然といった口調でそう言った。“うるるん”と言えば、国民的な少女漫画雑誌だ。かくいう私も、子どもの頃には愛読していたけれど……それを今、どうしてヨシオが読んでるの !?
「そんな趣味あったの !? 」
驚いて食い気味に訊く私に対して、彼は何てことのないように返す。
「いや、それが仕事に関係するものでさぁ……」
「そ、そんなことある?」
仕事がどうとか誤魔化さないで、趣味なら趣味だと正直に教えてくれればいい。確かに驚きはしたけど、否定するつもりはないし……そう私が言う前に、彼は「それが、そんなことがあるんだなぁ」とニヤリとすると、にわかには信じがたいようなボソンジャンプと少女漫画の関係性を説明してくれた。彼お得意の、ちょっとしたユーモアを交えて。
「――というわけ」
「そうだったんだ……」
「あ~でもまだ公表してはいないから、あんまり言いふらしたりするのはナシでお願い」
「それはもちろん」
どのみち私が「少女漫画によって自由なジャンプシステムへの道が開ける!」なんて言ったって、頭がヘンになったんじゃないか、といった目で見られるだけのような気がする。今だって、ヨシオが優秀な科学者だという事実に加えて、私でも理解できるような簡単な言葉に噛み砕いた説明があったからこそ信じられた。
「それじゃあ、少女漫画読むの、これが初めて?」
「ああ。ちょっとしたカルチャーショックってな感じ」
特にこの場面とか、と示してくれたページを見れば、それは少女漫画では定番の“遅刻の場面”だった。
「いくら時間が無くても朝食はゆっくり食べた方がいいだろうし、下手したらパンをのどに詰まらせて窒息し――」
「そこまで! そんなロマンの無いこと言わないの!」
読者だって、そんな現実的なことは分かりきっている。分かりきっているけれど……その上でやっぱりイケメンとの突然の出会いを楽しみたいのだ。そして、後からイケメンと再会して、「あ、あの時の……!」と驚きつつも運命を感じたいのだ。
それが理解できなければ、乙女心を理解できていないも同然。ボソンジャンプシステムへの活用だなんて、夢のまた夢なんじゃないの?
……私の中の隠れた夢見がちな少女マインドが出てきて、つい熱弁してしまった。言い終えてからハッとしたけれど、幸いなことにヨシオは引いておらず、あくまでボソンジャンプの研究に対する重要な意見だと捉えてくれたらしい。
「この世界は、まだまだ分からないことだらけだな」
少女漫画の世界を、いい年した男の人が理解しきっていてるというのもどうかと思うけど……というのは言わないでおいた。
「でもさ、そんなに熱く語れるってことは、憧れてる時あった?」
「……まあ、それなりに」
お恥ずかしながら、昔は毎月“うるるん”を楽しみにしていたし、お気に入り作家の単行本も集めていた。捨てられていなければ、多分まだ実家にあるはず。
「へえ、意外」
「そう、かな? 私も子どもの頃は少女漫画を読んでたし、ありもしない王子様との運命の出会いを待ってた――」
「ぷっ!」
こともあろうか、突然ヨシオが吹き出した。
「ちょっと! ひどい!」
仕事に関係するのだから、と恥ずかしさも我慢してヨシオに協力するために正直に答えたのに……笑うなんて!
やっぱり乙女心を分かっていない恋人を睨むと、彼は「ごめんごめん、悪気は無いからさ」となだめるように言った。
「ほら、いつもの
夢子の様子見てると、王子様なんて信じてないって感じがしてたからさ」
「……そういう風に見えてたの?」
ヨシオが私をどんな風に感じてるのかなんて話してくれることは滅多に無いので、その言葉は不思議な感じがした。
「でも今は、王子様に出会いました、って?」
もちろん俺ね、とわざとらしくウインクして見せる彼。ほんと、調子がいいんだから。
「……バカじゃないの」
照れ隠しも込めて、そう返せば。
「あ、それ、今月のうるるんに載ってたな」
そう言って、途端に雑誌をパラパラとめくるヨシオ。もちろん私は呆れてしまって、声も出なかった。
確かに彼は科学者であり、妙なところで熱中してしまうことがあったり、どこまでも答えを追求することがあったりする。けれど、こんな風に、恋人同士のやりとりを逐一少女漫画で答え合わせされてはたまったもんじゃない。
「――あった! これだこれだ」
そうして答えのページを見つけた恋人は私の心の中を知る由もなく、どこか嬉しそうにしている。
「……ということは」
ヨシオは私の顔を見ると、ふふんと意味ありげに笑った。その様子がなんだか気に食わない。
「何よ」
「いやぁ、満更でもないんだなぁと思って」
なんだか嫌な予感がする――そう思った私は、「貸して!」と言い終わる前に彼から強引に雑誌を奪い取って、開かれていたページをまじまじと見た。
少女漫画の一場面。顔を赤くさせたヒロインらしき女の子が描かれているけれど、問題は楕円形の特殊な線で描かれた吹き出しの中の言葉。
そうだよ、カケル君は私の王子様なんだよ……
自分の心の中とリンクしたようなヒロインのモノローグ。ヨシオの言わんとしていることが分かって、何だか顔が熱くなる。
「……当たりだろ?」
恐るおそる彼の顔を見れば、どこか楽しそうにしている。……ずるい、私の心の中ばかり読んで。
「ま、まあ、確かに昔の私ならこんな風に思ってたかもしれないけど、今の私は別にこんなこと思わないから――」
「へぇ、本当に?」
余裕ありげに距離を詰めてくるヨシオは、私の本心に気付いているんだろう。けれど、それを素直に認めてしまうのは何だか嫌だ。
「少女漫画読んだだけで、乙女心が分かった気にならないでよね」
「分かった気になんて、なってないって」
「なってる。そういう自信満々な態度がダメ」
当てつけに近い言葉をかけてしまえば、ヨシオは少し目を丸くして、それから困ったように笑った。
「……まったく、乙女心ってものは難しい」
「そりゃどうも」
淡々とした言葉で返してコーヒーを一口飲めば、やっと一本、ヨシオから奪えたような気がした。
けれど……私だって、いつか彼のモノローグを読んでやるんだから。
END