※性的表現



 その時夢子は、一度だけ会ったことのある人物を頭に浮かべていた。
「好きなんでしょ、あのこのこと」
 治彦はその言葉を聞いて目を丸くし、それから困ったように笑った。
「はは、あなたには隠しごとは通用しないみたいだ」
 夢子からすればカマをかけたつもりだったが、心のどこかではそれはどうにもならない事実なのだと捉えきっていたことでもあった。
「それは、私に対する感情とは違うもの?」
「そう、かもしれませんね」
 治彦は窓の側へと移動する。
「……確かに、僕はあなたから見れば理解しきれない行動をしているかもしれない。ですが、それは私が葛藤した結果であって、それなりに悩みの多い人間なんですよ」
 窓越しに見える灰色の空は心を映しているようで、そこを泳ぐ彼の視線はやけにはっきりと何かを捉えていた。視線の先にはあの人物が浮かんでいる気がして、もしかしたらこのまま彼の心が引き込まれ奪われてしまうのではないか……夢子は焦った。
「だったら」夢子は治彦の腕を掴む。「私のところに来てよ。抱きしめてあげるのに」
 夢子の真剣な表情に、治彦はふっと笑った。
「あなたは大胆な人だ」
 想定外の反応と彼の柔らかな瞳に、夢子は拍子抜けしてしまう。彼の浅い笑みが、彼女が自分でも気付いていない深い想いを自覚させた。夢子は一緒に笑って誤魔化そうとするが、治彦は逃がそうとはしない。
「でも、それはどう言った気持ちからですか? 母性? それとも――」
「あなたの好きなように受け入れればいいわよ」
 夢子の微笑みは、治彦の男としての孤独を十分に引き寄せた。そして、そのまま身を預けたくなるような深さを持っていた。
「それでは、お言葉に甘えて」
 彼らしい言い回しを合図に、二人の体が近づく。腕を回して抱き合い、布越しの互いの温かさを感じていた。
 髪を指で漉き梳かしながら、鼓動が同じになっていくような感覚に身を落とす。今更二人が真心を持ち合う必要はなかったが、時にはこんなままごとじみた導入というのも互いに刺激をもたらしてくれる。
 互いに相手を転がしていると思いながら、イニシアチブを手にしていると思いながら、結局は相手に慰められている。いつでも止められると思いながらも、どちらも手を引くことはない。未だ味わったことのない禁断症状を理由に、定期的な逢瀬を楽しんでいた。
 治彦が体を許している相手が他にもいるということは夢子も知っている。だが、彼が他の人物に対してどんな態度を取って、どんな顔を見せるのかは知らない。
 多数の中の名もない一人でいいと思いながらも、ふたりといないこの自分をはっきりと求めて来てほしいと夢子は思っていた。それが、思いあがった感情であるとも気付かないで。
 上質なスーツの生地に手のひらを沿わせて、その感触を味わう。その実、彼にかきたてるような欲望の昂りを味わわせるように。
 暮らしぶりの割には綺麗な治彦の指が一つ、二つと彼女のボタンを外したところで、止めの手が入る。夢子は治彦の手に指を絡ませるようにして、もう片方の手で彼のシャツのボタンを外した。
 珍しい夢子の献身に、治彦は一瞬驚いたが悪い気はしない。されるがままに胸元がほどかれていくのを見ていた。
 薄っすらと残る傷跡を指でなぞる。治彦は少しくすぐったそうにして、仕返しに夢子の輪郭をなぞった。
 白い肌に青筋が浮かんでいるのを見て、夢子はどこか安心した。手のひらをそっと押し付ければ、鼓動だって感じ取ることができる。
 手のひらで触れていく部分部分から、彼のことを感じ取っていく。彼自身が気付くこともなく無意識の内に欲しているものを、夢子は少しずつ特定していった。

「……もう行くの?」
「ええ」
 ネクタイを締める治彦を、夢子は気怠げな身体を横たえて見ていた。
「もう少しゆっくりしていってもいいのに」
「仕事がありますから」
 その言葉の真偽を疑ってか、夢子は安易に納得した姿を見せることができなかった。そして、安易に疑いの言葉をかけることもできなかった。
 終わってしまえば用ナシだとすぐに出ていく彼の姿が、どこか白状に思える。きっと“あのこ”に会いに行くのだと、女の勘がそう告げていた。
 男同士の“何か”がそんなにいいものなのか、女である夢子には全く分からなかった。それでも、女である自分が与えることのできる温もりが、男である彼にとって不要になる日は来ないことを知ってもいた。
 その度に、きっとつらい思いをしながらも彼の幸薄い笑み丸ごと抱きしめたくなるのだ。自分こそが彼を芯から癒すことができるのだと、自惚れてしまうのだ。
「それでは」
 他人行儀な態度がどこか憎い。どうせならば縛るだけ縛って、自分だけ自由に振る舞ってくれたらいいのに。……縛られる立場にある治彦に、意味の無い願望を夢子は抱く。
「……気を付けてね」
 部屋から出て行った治彦の足音が徐々に小さくなる。こもった空気がそのままだったことに気付くと、夢子は窓を開けた。
 相変わらずの曇り空。事が終わろうがどうしようが清々しい気分になることのない男女の行末を暗示しているようだった。そんな窓から入ってくる光は頼りなく、昼間でも明かりを付けなければ室内は薄暗い。
 ふと、窓から外を覗き込むと、アパートの前に車が一台停まっていた。だが、それはオルガノのものではない。
 車から降りた人物が建物内へと入り込み、階段を上っていく。複数人の足音で、建物全体がひどく揺れるようだった。
 その足音が刻むリズムが、夢子の早まる鼓動と共鳴していく。いつだって一番になれない自分を、夢子は思い出していた。
 ああ、自惚れが過ぎたのかもしれない――自分の立場の光と影に気付いた夢子は、運命の扉が開かれるのを待っていた。


2025/7/5