※性的表現



 ロジャー・スミスは苛立っていた――原因は、2つ。

 ひとつは、訳あって居候しているアンドロイドのドロシーによる目覚まし代わりの演奏。……これは、彼がもっとも大切にする素晴らしい目覚めを邪魔するものであり、彼が日頃望む“昼まで眠る”といったささやかな自由さえもを奪うものである。
 何度注意してもなかなか直らないので彼は諦めつつも、しばらくベッドの上で唸り声を上げながら体をもぞもぞとさせる。だが、ついに我慢できなくなると、部屋着姿に前髪を下ろしたままで、ドロシーの元へと怒鳴りこむのがこころのところの彼の習慣になっていた。この自分が優雅さを忘れてしまっているのも全て彼女のせいだ、というのが彼の言い訳でもあった。
 もうひとつは、今日に限ってなぜか多い依頼者。
 交渉人ネゴシエーターである彼を頼って、ロジャー宅の門を叩く者が多いのは仕方がないことだ。が、それがあまりにも多く、礼儀をわきまえていない者がほとんどとなると……彼の苛立ちが募るのも仕方がなかった。
 初めの方はどうにか落ち着いた態度で対応してきたが、そのうち、とてもではないが自分の心情を抑え込みながら会話をするのが難しくなってくる。午後も半ばになった時点で、執事であるノーマンに「『今日は無理だ』と言ってくれ」とだけ伝え、彼は自室にこもったのだった。

 この頃縁の無い日々の生活の安寧は、こういった無の時間によって生まれるというものだ。机の周りに並んだ数多くの砂時計を時折逆さにしたり、そのまま放っておいたり……午後をぼうっと過ごしていれば窓から部屋に入り込む光はすっかりなくなってしまい、視界は暗くなり始めていた。
 下に砂を落としきった砂時計たちをぼんやりとしか捉えられなくなったところで、そろそろ夕食の時間だということにロジャーは気付いた。そのうちノーマンがやってくるだろうかと思えば、そんなタイミングで扉がノックされる。
「ロジャー様、お客様です」
 信頼のできるノーマンのことだ、新たにやってきた依頼者にならば「ロジャー様は体調がすぐれませんで」などと言って適当に誤魔化してくれているはずだ……そうだとばかり思っていたロジャーは、ノーマンがわざわざここまでやってきたということは何か一筋縄ではいかないことが起きたのだと勘付いた。
 これ以上、面倒ごとは御免だ。とにかく、今日はもう、誰かと長々と話をするような元気はないのだ。
「……すまない、ノーマン。今日は引き取るように言ってくれ」
 ため息をついたロジャーが机に突っ伏せば、「ですが……」と歯切れの悪い言葉が聞こえてくる。
 お願いだ、ノーマン。
 そうロジャーが叫びたくなると、聞き慣れた、それでも久しく聞いていない女性の声が彼の耳に届いた。

「だったら、少しだけでも顔を見せて」

 ――この家のルールでは、女性ならば無条件で通しても良いことになっている。さらに、主がこんな状態であろうとも、執事であるノーマンがここにまで無条件で連れてくる女性と言えば“彼女”しか当てはまらない。
 確かに誰にも会いたくはなかったロジャーではあったが、恋人のことをないがしろにするのは彼の道理に反した。「どうぞ」と短く許可の言葉を発し、ゆっくりと体を扉の方へ向けた。
「ロジャー」
 扉が開いて一番に目に入って来た、眩しい光と紛うような彼女の姿。愛しい恋人である夢子がわざわざ自分に会いに来てくれたというのはいいものであったが……ロジャーは目の前の光景を理解するとやや顔をしかめ、眉根を掴んだ。
「やっぱり体調が悪いのね」
「いや、そういうわけではないんだ。少し、ひとりになりたくてね」
「ごめんなさい、突然来ちゃって。まさか、気分がすぐれないだなんて思いもしなかったから」
「謝る必要はないさ。僕も君の顔を見れて嬉しいよ」
 そう言ってにっこりとしたロジャーだったが、夢子はすぐに異変を読み取っていた。彼が無理に微笑んでいるのだということは、それなりに付き合いの長い彼女にはお見通しだった。
 夢子は、ロジャーの家から離れたところに暮らしている。もちろんドームの中ではあるのだが、彼に何か用事があるか、彼からデートに誘われるでもしなければ、忙しい彼と意味もなく会うということはなかった。そんな彼女は今日たまたまロジャー宅近くに用事があり、この頃恋人と会っていないことを思い出すと、彼に会いに行くことを急遽決めたのだった。
 端正な生活を望む彼ならば事前に予約を入れておいた方が良いのだろうが、突然会いに行くというのも面白いだろう。そう思って、このようなサプライズの形で現れた夢子だったが、久しぶりに会う恋人はどうしたものか、気分がすぐれないらしい。
 ロジャーの視線が、遠慮なく夢子の体を見つめる。しかし、それは決していやらしいものではなく、何か不満を言う代わりの痛い視線だった。
 ……そう、夢子が着ているのは、真っ白なワンピース。夢子が、ロジャーが視線で何かを訴えていることに気付き、自分の服こそが彼の不機嫌をより一層濃くしているのだということに気付くのは、そう難しいことではなかった。
 彼は、いつも黒い服を身にまとっている。愛車も、ネクタイも、彼の瞳も、髪も、全て真っ黒だ。そして、彼の家で暮らすものは黒い服を着なければならないというルールも存在していた。そのルールは、いつも出迎えてくれる執事のノーマンにも適用済みだ。
 夢子はそのことを忘れていたのではなく、敢えて白い服を着ていったら彼は気に食わないと不機嫌になるだろうか、それとも、私の存在だけは特別だ、と寛大な態度で接してくれるだろうか……ロジャーの黒へのこだわりを逆手にとってしまおうと思っていた彼女ではあったが、まさか、訪ねた時点ですでに彼が不機嫌であるとは思ってもいなかった。訪問者にまで服の色の指定を求めるようなことはしない彼だが、今、何か不満を抱えている様子を踏まえると、そんな些細なことも気になって仕方がないのだろう。
 明かりもつけない部屋の中は、月明かりのみで薄暗い。夢子の白いワンピースも青白くなっているのだが、それでもロジャーは気に食わないようだった。
「白は嫌い?」
「……そんなことはない」
 頬杖をついて否定した彼だったが、態度では「白は気に食わない」と言っている。気の置けない恋人の前だからこそ素直に見せた不機嫌な感情と、子どもがするような仕草に、夢子は口元が緩みそうになった。
 彼の機嫌があまりよろしく無いということはノーマンから聞いていた。しかし、それでも夢子が白いワンピースで彼と会うことを望んだのは、彼をこれ以上苛立たせないための方法を持っていたからだ。そして、苛立ちからくる彼の少し冷たいような態度のおかげで、夢子はその身体を少しずつ熱くしていた。
「やっぱり、また今度にしようかしら」
 残念がるような口調でそう言った夢子が、ロジャーに背を向ける。それを帰る合図だと思ったロジャーは立ち上がり、せめて扉を開けてやろうとした。
 が、彼女は、大窓を背にすると近くの棚にハンドバッグを置き、不敵な笑みを浮かべたままロジャーの顔を捉える。
「でも――」
 夢子は来ていたワンピースのボタンをひとつずつ外していく。もったいぶるように、徐々に露わになっていく肌色。生地が擦れて肌をかすめていくかすかな音が、静かな部屋の中に溶けていく。
 見れば、彼女の明るい肌とは対照的な黒が、柔らかな肌を抱いていた。細かなレースで成り立った下着は、ふんわりと丁寧に彼女の肌を包んでいる。彼女はすべてのボタンを外すと、自信ありげにロジャーの顔を見つめる。

「これなら?」

 ワンピースの布地から覗く肌と黒を見て、ロジャーは動きを止めた。どこまでも繊細な彼女の体。いつもとは違う、誘うような出で立ち……
 彼はソファに深く腰を掛け、まるで劇場の鑑賞でもするように足を組んだ。
「……続きは?」

 大きな窓を背にした夢子は、影絵のようにしてロジャーの目に映った。夜空のほのかな月明かりが彼女の肌を青白く縁取り、肌に艶めかしいつやを与えている。
 彼からしてみれば想定外のことではあったが、悪い気はしない。苛立ちが収まるどころか、その事実さえも忘れてしまった。そういうことだったのかと一人納得しつつ、顎をさすって平常を装いはするが、口元からは笑みがこぼれた。
 だが、それも夢子からは見えていない。自らが作った影の中にロジャーを隠してしまっているのだ。
 顔が暗く見えなくとも、彼の瞳が自分の身体を見つめているという確信だけはある。想像の上に成り立つ視線にせかされるように、早く彼と触れ合えるように、夢子はワンピースを肩から少しずつ下ろしていく。肩の柔らかなカーブが月の光に照らされ、それは細い三日月のようだった。
 ワンピースが、暗い色の絨毯の上に落ちる。瞬時に夢子の足元に咲き誇る、白い花。そうして、その上にすっとそびえ立つ、彼女のしなやかな体。
 柔く、どこまでも広がっていき、いつもは温かく彼を包んでくれる肌が、今は、黒い繊細なレースの下着に抑えつけられている。闇と月明かりがもたらす官能的な世界に、ロジャーは小さく息を吐いた。
 夢子がブラのホックに手を掛けようかとした時、ロジャーは「待って」とソファから腰を上げた。低い靴音を響かせながら、焦らすようにゆっくりと夢子へと近づく。期待が募っていた彼女は、彼の歩みがもたらす振動までもを肌で拾いとってしまえそうだった。
 夢子は、ロジャーが今どんな表情でいるのかを見ようと目を凝らして闇の中を見ていたが、彼が影から抜け出た時、思わず目を反らしてしまった。苛立ちがもたらしたと思しき彼の挑発的な視線は、想定外だったのだ。
 一方ロジャーは、夢子のその仕草にこそ一種の挑発を読み取った。こんなにも煽情的な誘い方をする彼女が、いまさら引くわけがないと思ったからだ。
 うつむく夢子の肩に、ロジャーの手が触れる。彼女の身体が、少し揺れる。初心な反応を愉快に思いながらも彼は彼女の二の腕へと手を下ろし、顔を首筋へと近づける――その薄い肌に唇が触れた時、夢子はわずかに息を漏らした。ロジャーには、その息遣いさえもが愛おしかった。
「今日のために?」
「……驚かせたかったの」
 夢子の髪を撫で、囁く。「似合っているよ」
 それから、ロジャーは夢子の頬に口づけた。小さな子どもでも可愛がるように、唇が触れるだけのキスを彼女の頬に贈る。その口づけを受けて、夢子は彼と向き合おうと顔を動かした。
 やっと見つめ合ったその瞳には光が浮かび、彼にはまるで潤んでいるかのように見えた。いつの日か彼女に贈りたいと思っているダイヤのついた指輪よりも高価で、魅力的で、きらめいていて、値のつくものよりも目の前の彼女がどんなに素晴らしいのだろうと感動した。
 物欲しげに少し開いた唇に、指先で触れる。愛おしさからか、それともわざとらしく焦らすためか、羽根のようにやさしく触れる指先は、夢子には少しこそばゆかった。そうして彼が彼女の顎をそっと掴むと、ふたりはキスをする。
 触れるだけのものだった。それなのに、何かが互いを違う気分にさせた。これだけで今夜が終わって良いとは思えないのだが、妙に満ち足りた気分にさせるのも確かだった。

 ベッドに辿り着き、夢子の下着を脱がせていく間、ロジャーは彼女の肌に何度も唇で触れた。宝物のように、何度も何度もキスをする。それが、彼女にはとても嬉しかった。早く、ロジャーに返してやりたいと思う程だった。
 ロジャーがすでに緩めていたネクタイを外し、ベルトを外す間、夢子は黙ってそれを見ていたが、つい、いたずらに訊いてみたくなった。
「そんな気分じゃないんじゃなくて?」
 意地悪に微笑む夢子を見て、ロジャーは機嫌よく口角を上げた。
「あいにく、とっても気分が良いものでね」
 ベルトとネクタイを近くの椅子の背もたれにかけると、夢子に覆いかぶさる。そのまま、額にキスを贈った。
「よかった、機嫌直してくれて」
「白いワンピースで来たのはいただけないがね」
「根に持つのね」
 からかう夢子の唇を、ロジャーがふさいでしまう。突然の、そしてしばらくのキスに、やっと唇が離れた時、夢子は少しくらくらとした。彼の唇自体が久しぶりということもあったが、こんなにも熱いキスは初めてだったからだ。

 何かが、彼を逸らせている。
 何かが、こんなにも昂らせている。

 衣擦れの音が聞こえ、キスの間にも彼が器用にスラックスを脱いで、シャツを脱いで……そして裸になってしまおうとしていることに、夢子は少し面白さを感じた。それは、日頃は理性的な人間を装っている彼が、自分でも知らないうちに欲望に突き動かされていることが端的に現れていたからだ。
 忙しい、となかなか時間をつくれない彼が、自分と向き合う時はちゃんと時間を取ってくれること。素肌を触れ合わせてくれること。
 彼の紳士的な態度の中でも、これが夢子にとっては大切で大好きな部分だった。
「久しぶりに会えてうれしいわ、ロジャー」
 微笑む彼女の言うロジャーとは、“黒いスーツを脱いだ彼”であったのかもしれない。
「ああ、僕もだ」
 抱きしめられた体の温もりに、互いに触れ合った肌の滑らかさに、夢子は言葉がこぼれ出るのを抑えられなかった。
「好きよ、愛してる……」
「ああ……」
 久しぶりの心地良い感覚に、ロジャーと夢子はふたりだけの世界へと入り込んでいった。




 すでに夕食の用意を済ませ、ロジャーがやってくるのを待っていたドロシーは、席についたままノーマンに訊いた。
「ロジャーは」
「それが……おそらく、もうしばらくはいらっしゃらないかと」
 含みのある言い方に、ドロシーは「そう」とだけ返す。窓を見れば、夜の始まりを告げる青白い月が煌々と輝いていた。


END