啓介の運転でドライブがてら遠くの山まで来てみたものの、走り屋らしき車はいない。峠を攻めに来たわけではなかったけれど、特に何も用事がないとなれば、ただの夜の山でしかない。
 たった一つの電灯と自動販売機がある休憩所に寄って一息つくことにした。
 車のドアを開ければ、冷たく澄んだ空気が頬に触れる。座りっぱなしだった体を伸ばすと、車の暖房でぼやけていた頭が冴えていく。
「やっぱり、ただの農業道路って感じなのかな」
「だな。ここまでしけてるとつまんねぇな」
 体はいつの間にか冷え切っていて、行き場を失った指先をとりあえずポケットに突っ込む。上着に顔をうずめるようにすると、啓介が財布を取り出した。
「何か飲むか? おごってやるよ」
「ありがとう。じゃ、遠慮なく」
 <あたたかい>の文字がついた缶の飲み物のボタンを押す。ガタンと大きな音がしてから取り出したそれは、凍ったような手にはジンジンとする。服の袖を引きのばして、布越しに缶をつかんだ。
 やっと温かいものに辿り着けたからか、お互い言葉もなく缶を開けようとする。けれど、かじかんだ指ではうまくプルタブを起こすことができない。啓介の方からは音がして、コーヒーの香りが漂ってくる。
「あれ……」
 何度か挑戦するけれど、それでも開かない。指が痛くなってきたので、今飲むのは諦めるか……硬いプルタブを見つめていると、頭上から啓介の声が。
「貸せよ」
 そう言って、私の手から缶を取った。代わりに飲みかけの缶コーヒーを渡される。
 すると、すぐにプシュッと音がして、難なくプルタブを起こした啓介は私にそれを戻した。私も、預かっていた彼の缶を返す。
「……ありがとう」
 寒さで固くなっている口角は、きっとぎこちなく上がっているだろう。恐る恐る飲み口に唇を当てて、飲む。……少し、熱い。
 温かい缶を両手で包みながら、視線だけを啓介の方に向けた。 
 車のボディを黙って見つめる横顔が、自動販売機の安っぽい明かりで縁取られている。白い息が口の端から漏れて、彼は再度そこに飲み口を押しやった。
「何だよ」
 夜の暗い中では、何も言い訳が見当たらない。それでも、「見とれていた」と素直に言うことが妙に恥ずかしくて、「熱いの平気なんだ、と思って」と誤魔化しておいた。
夢子が猫舌なだけだろ」
 傾ける缶の角度が急になって、露わになった喉の凹凸が上下する。その角度のまま、視線がぶつかる。
「何だ? まだ何かあるのか?」
 ゴミ箱に空き缶を捨てると、啓介は距離を詰める。じろじろ見ていたのが良くなかったのかもしれないけれど、今日の啓介はついつい見つめてしまいたくなるほど魅力的なのだ。正直言って、不可抗力だった。
「早く飲まないと置いてくぞ」
 見られた仕返しと言わんばかりに意地悪な笑みを浮かべる啓介。
「凍え死にさせる気?」
 私も、冗談に冗談を重ねてみれば……私が暖をとっていた愛しい缶を奪い取ると、啓介はくちづけた。
 外気に触れて冷たくなった唇は乾燥している。熱いコーヒーを流し込んだばかりの口内は、火傷しそうなほどに熱かった。肌に当たる外気が冷たいからか、余計に熱い。唇から伝わる熱が、顔中、身体中に広がっていく。

「熱い」

 顔も熱くなって、今が真冬だということも忘れてしまっていた。
「なら、死なないな」
 そう言ってニヤリとした啓介が、憎らしくて……ずるいほどに、かっこいい。


***


 私が飲み終わるのを待っていてくれた啓介は、「さすがに冷えるな」と言いながら車のドアを開けた。続くようにして私も車に乗り込めば、ぬるい空気が頬を撫でる。
 再び近くなった、啓介の肩。シートベルトを締めて、ハンドルを握る骨張った手。
 ……さっきキスをしたことなんかも全部忘れて、私は細かなことにどぎまぎとしていた。
「明日はDがあるから、帰るか」
「そうだね、お化け出そうだし」
「信じるタチかよ」
「啓介、信じてないの?」
「走ってる最中に邪魔されたら信じるかもな」
 案外、現実主義なのだ、彼は。乗っている車の色とも、髪の色とも相反するような落ち着いた雰囲気に、「ああ、そういう人だったっけ」と何だか納得してしまう。
 少しこわばったような表情の中で柔い笑みが浮かぶたび、私は胸が締め付けられる思いでいるのに、啓介は「今日、どうしたんだ?」と訊いてくるだけ。……もう、だめだ。
 理性でとどめようとして、それでもどうしても無理で、どうしてもキスしてしまったのは――私の正直な思いの表れだった。
「……やけに積極的だな」
 お化けが怖くなったか、と冗談交じりに言ってくれるけれど、私はうつむいて何も言葉を返せない。
 キスもデートも何度だってしてるのに、別に緊張するようなことじゃないのに、何かが私をこんなに落ち着かない気分にさせる。
 行き場のない手に、啓介の指が絡む。顔を上げれば、そこには冗談を言う彼はいなかった。その瞳の意味が分からないはずもなく、あ、とだけ声を発する。
 自動販売機と電灯の明かりだけが頼りの車内でも、啓介の表情ははっきりとわかる。目を少し見開いて、何か言いかけて唇を開きかけたのだって。
 けれど、次の瞬間には私の手から啓介の指がほどかれ、彼の手は無慈悲にもハンドルを握ってしまう。

「……帰るか」

 この言葉がひっかかって、車内はしばらく無言が続いた。
「ごめん……さっきは」
「何がごめん、なんだ」
「だって、早起きするだろうし、疲れちゃうと思って……」
 いくら趣味の延長線上とはいっても、啓介はドライバーで、チームの中で重要な役割を果たす人間である。さっきのキスは無理に誘ったようなものだから、断られたって仕方がないことだ。
 それなのに、啓介は、しょうもないと言わんばかりに一笑した。
「明日は別に朝早くねぇよ。てか、明日あるからこそ、だろ」
 あっけらかんと言ってしまった啓介のその様子に、拍子抜けしてしまう。
「じゃあ、帰るって言ったのは――」
「車の中、なんて選択肢はないからな、さすがに」
 その意味を知って、ひとりでに顔が赤くなる。
 運転中の啓介が私を見ることはない。けれど、ちらりとでもいい。ほんの一瞬でもいいから、彼の視線を浴びたい。……もどかしい思いは、彼への想いをどんどんと強くするだけ。
「そういうことだ。さっさと帰るぞ」
 無理に感情を抑えたような声音。
 ……啓介の横顔を見て、私は一人、鼓動を早めるしかなかった。


END