※THE ORIGIN の世界線
※性的表現
開いた窓から、乾いた風が吹いてくる。レースのカーテンが自由に形を変える様子は、見ているだけでも飽きない。
スペイン・アンダルシアの高台に建っているテアボロ邸は、窓から辺りを見渡すことができた。
宇宙と比べれば、いくらも狭い地球。だが、コロニーよりは幾分も広く感じられて、複雑な様相を呈している。赤褐色の地面が続き、すぐに岩石が露出するような地帯へと変わる。
この家にいれば――マス家の人間として生活していれば何も不自由することは無かったが、代わりに外の世界への好奇心を強くさせた。充足という名の退屈が、見知らぬ場所への冒険心を駆り立てた。
だが、宇宙に出た者は心のどこかでは地球を望んでいる。第1世代のスペースノイドはもちろんだが、その子孫までもが求めるのだ。まるで、遺伝子に組み込まれているかのように。荒れていく地球を見捨てるようにして宇宙に出て行きながら、母なる地球への帰心を捨てきれない、悲しい人間の性である。
ジオン・ズム・ダイクンの遺児であるキャスバルは地球には降りたくはなかった。母、アストライアを残し、生家を離れるのは胸が引き裂かれるようだった。
それでも決して涙も弱気も見せないキャスバルは妹のアルテイシアを守るため、生きながらえるため、ザビ家に復讐するため……ふたつの碧い瞳で現実を見つめた。
「――さま、エドワウ様?」
マス家のメイドである
夢子に呼ばれていることに気付いたエドワウは、追憶を中断した。
「……ん、ああ、
夢子か」
「どうかされましたか」
「いや、何もないよ」
テアボロ邸に住むようになってからしばらくたったが、未だにふとしたときに今の自分が“エドワウ・マス”なのだということを忘れてしまう。考えごとをしていたと言えば大抵は誤魔化せるが、早くなおさなければならない悪い癖でもあった。
「アイロンがけをしたお洋服、ここに置いておきますね」
「ああ、ありがとう」
その淡々とした物言いは、まるでこの家の主人のような威厳さえあった。いくつも年が下での子どもだというのに、彼と接する時には緊張が
夢子を襲った。その度に、エドワウ・マスとセイラ・マスに初めて会った時のことを思い出す。
使用人の中では一番彼らに歳が近いからというだけの理由で、
夢子はエドワウとセイラの話し相手や遊び相手になることを任された。
碧い瞳は頭の中まで見透かしているようで、見つめられては身動きが取れなくなる。エドワウの物言いや表情は柔らかだったが、子ども相応のものではなかった。
エドワウとセイラと共にやって来たジンバ・ラルが宇宙や地球の歴史についてエドワウに教えている。
夢子はその様子を覗いたことがあるのだが、とても学校代わりの講義だとは思えなかった。熱の入った語り口のジンバは、その想いまでもを伝えようと必死で、エドワウもその様子をじっと見ている。高貴な生まれだからなのか、このような学びの形の方が彼には適しているのだろうと
夢子は考えた。
主人であるテアボロから言われた以上、エドワウとセイラが馴染めるようにと努力してきたつもりの
夢子ではあったが、心のどこかでは話が合わずに迷惑に思っているのではないかと不安だった。
セイラの方はまだ幼く、女の子ということもあり言葉通り可愛がることができる。だが、エドワウの方はどうも距離感を感じて、うまく関係性を築けないでいた。彼の方から話しかけてくることもほとんどなく、あっても業務的な内容ばかりだった。
そんな状況の中でも、メイドとして、そしてテアボロに特別に頼まれた身として最善を尽くさなければならない。日々の些細なやりとりを通して、初めの頃よりは幾分か良い関係を築き始めていた。
「あら、エドワウ様。いらっしゃったんですか」
エドワウが炊事場にやって来るのは、これが初めてだった。家の中を紹介した時に見て回ったぐらいで、基本的に彼とは縁の無い場所。
夢子はタオルで手を拭きながら問う。
「何かご用ですか?」
しかし、エドワウは答えなかった。いつもならば、はっきりとした物言いですぐにやり取りを終わらせようとする彼が、言葉に詰まっている。
夢子は不思議に思った。
「もしかして、お腹が空いたのですか? たしか、この辺にクッキーが……」
棚の扉を開けて中を見渡すと、洒落たデザインのクッキー缶が入っていた。
「テアボロ様のお土産のクッキーなんです。きっとおいしいですよ」
夢子は蓋を開けるとエドワウに差し出したが、彼は指ひとつ動かさない。すると、無言のまま距離を詰めてくる。顔は下に向けたままで、表情は読み取れない。何か気に障るようなことをしてしまったのだろうかと
夢子は焦った。
「あの……」
そうして、ふいに上げられたエドワウの顔。その表情を見て、
夢子はふと思い出した――今のエドワウの表情が、いつの日か見たことのある難民の子どもの表情と同じだということに。
その子どもは度重なる紛争で親を亡くしていて、まだ幼いというのに生活のために靴磨きとして働いていた。人の多いマーケットで働いていたその子どもには、裕福な大人を見るよりも、親と子が揃っている姿を見る方が辛かった。労働に対する対価を払ってもらえて、時折オマケまでくれたとしても、無償の愛というものは誰も与えてくれないからだ。
それまでは気丈に振る舞っていた子どもだったが、気付けば黙って
夢子の裾を掴んでいた。その時、何の言葉もなかったのだが、
夢子には何をすべきなのかが分かった。
周りに人がいないことを確認すると、
夢子は微笑む。
「もし嫌でしたら、嫌とおっしゃってください」
エドワウの背丈に合わせてしゃがむと、そのまま背中に手を回した。しばらく棒立ちのまま抱きしめられていたエドワウだったが、そのうち彼の手が
夢子の腰あたりへと回される。確信を得た
夢子は、抱きしめる腕にもう少し力を込めた。
いくら大人のように落ち着いた振る舞いをしているとしても、父親を亡くし、母親と離れ離れになって愛情に飢えている子どもに違いない。妹を守らなければならないという強迫的な意識が、無理に彼を大人にさせているのだろう。セイラを抱きしめている時、どこか羨むまなざしがエドワウから向けられているような気がしていたことを
夢子は思い出した。
金の髪をそっと撫でると、腰に回された小さな手がシャツをぎゅっと掴む。彼が満足するまで、このままでいたいと
夢子は思った。そして、彼が一番に安心を求めるのが自分であったことに、染み入るような喜びを感じた。
回されていた腕がほどかれると、エドワウの鼻先は少し赤くなっていた。
「今日はエドワウ様のお好きなお料理にしますからね」
にっこりと微笑んだ
夢子を見て、エドワウは「ありがとう」とはにかんだ。
月日が経つのは早いもので、エドワウとセイラはそれは美しく立派に成長した。
母親ゆずりの金糸の髪には、聡明な碧い瞳が映える。まるで輝かんばかりの珠のような二人の具合に、テアボロにとっても自慢の子どもとなっていた。幼い頃から面倒を見てきた
夢子にとっても、どこか自分の子どものような感じがしていた。
素直で可愛らしいセイラには手作りの洋服を何度もプレゼントしたし、育ち盛りのエドワウには栄養満点の料理を用意した。
かつて難民キャンプの医療ボランティアをしていたことを、
夢子がベッドでのおとぎ話の代わりに話したことがあった。すると、セイラはそれに興味を示し、近頃はよく通っている。
隠居生活の中では、開放的な外の世界で様々な人とやり取りをするのが新鮮に感じられるのだろう。テアボロ邸にやってきたころはオドオドとしていたセイラが今では堂々としていて、人助けのために励んでいるのを見て成長を感じていた。それでも大切な身であることには変わらないので、伝染病には気を付けるようにと口酸っぱく言う
夢子がいた(すっかり母親気分なのだ)。
スクールに通うことは叶わなかったが、彼が他の青年よりも明晰な頭脳を持ち、立派な人格の大人になるであろうことは誰にでもわかった。まるで心まで見透かすような涼やかな碧い瞳が、人々にそう感じさせるのだろう。
そんなエドワウの姿を見て、テアボロは満足げだった。「早く一緒に酒を飲みたいものだ」というのが近頃の彼の口癖でもある。
だがその影で、エドワウは周りに人がいない時を見計らっては時折
夢子に安堵を求めた。
あの頃と比べれば背も同じほどになってしまっていて、子どもが甘えるというよりも、男女の抱擁にすり替わって見える。変な癖を付けてしまったのかと
夢子は不安に思ったが、エドワウが抱擁を求めるのはほんの時折だったため、きっと彼が本当に辛い時の拠り所になっているのだと理解することにした。愛情を与えられるうちに与えていた方がいいのだと思うことにして、彼の欲求に答えた。
メイドとして働く
夢子だったが、その根底には、エドワウとセイラの母親代わりになりたいという思いがあった。不安を抱きながらも、確かに輝かしい未来を想像させる二人をどうにか守りたいと思ったのだ。テアボロが二人の最も身近な使用人として
夢子をあてがったのは適切だった。
そんな中、
夢子にも変化が起ころうとしていた。テアボロが、彼女に見合い話を持ってきたのだ。
マス家のメイドとして幼い頃から働いている
夢子には親が無く、テアボロが父親のようなものでもあった。使用人にも気を回すテアボロは、年頃の彼女のことを気にかけて話を持ち出したのだった。
「どうだ、話を受けてみないか」
「ええ、まあ……テアボロ様の選んでくださった方なら安心です」
「それにしては浮かない顔をしているな」
言うか言うまいか悩んで、
夢子は言葉を濁した。
「……まだ、早いのではないかと思うのです」
夢子は、エドワウとセイラのことが気がかりだった。もちろん、自分が結婚するイメージが湧かないということも理由にはある。だが、まだもう少し二人の成長を見ていたかった。
親切なテアボロのことなので、今まで住み込みで働いてきた
夢子を労う意でもあった。一生ここで暮らすよりも自分が主人公になって人生を歩んでほしいという、テアボロの父親心のようなものも混じっている。結婚はあくまで取っ掛かりにすぎず、やんわりと
夢子にこの家から出ていくことを勧めていた。
だが、
夢子には重荷のように感じられるのも事実だった。今までテアボロに仕えながら生きてきた彼女には、自分を自らの選択によって生かすという術が身についていない。大海原に無責任に放り投げられたようで、まだまだ船にしがみついていたかった。
加えて、エドワウとセイラという理由があれば
夢子の頭が容易に縦に振られることはない。きっと二人は自分を必要としているはずなのだと、彼女は心の奥底でそう信じていた。
「すぐにとは言わない。あちらにもそう説明しているから、また気が変わったら教えてくれ」
「はい……すみません、テアボロ様」
「どうして
夢子が謝るんだ。第一私が勝手に持ってきた話だし、嫌だと思えば断ってくれればいい。まあ、しばらく考えてみるといいだろう」
テアボロは、居心地の悪そうにする
夢子に微笑みかけた。
それからしばらく、
夢子はいまいち仕事が手に付かなかった。ふとしたときに見合い話が頭の中で顔を出してきて、一体どうしようかと彼女を悩ませるのだ。だが、数日も経てば溜まった仕事が目に見えて溢れ出し、嫌でも仕事のことで頭を一杯にするしかなかった。
何とか雑仕事を終えて夕飯の仕込みをしていた
夢子は、久しぶりに見合い話のことを考えていたために、背後からやってきたエドワウに気付かなかった。そのまま背中から抱きしめられて初めて、事の重大さに気付いた。
「エドワウ様 !? 」
だが、誰に抱きしめられているかはすぐに分かった。戸惑いながらも
夢子は回された腕に触れてはみるが、外される気配はない。
「
夢子」
「は、はい」
「……もう少し、このままにさせてくれ」
その声に、
夢子はドキリとした。今までまるで自分の子どものように接していたエドワウ・マスのものではなかったからだ。たった一人の女を求める男の、せつない嘆願だった。
しかし、
夢子は気付かないふりをしていた。彼女にとってエドワウは子どもでしかなかったからだ。彼の背がもっと高くなっても、年をいくつ重ねても、その考えは変わるはずがないという確信があった。
それなのに、彼が自分を求めていると分かれば全てを与えてしまいたくなる。
勘違いさせてしまってはいけないと
夢子自身も十分わかっているのだが、手放しに与えてしまいたくなるのだ。自分の存在でもって彼に本当に安堵をもたらすことができるならば、それ以上の幸せは無いと。もはや、母親としてなのか一人の女としてなのか
夢子にもわからなくなっていた。
首筋に当たる細い髪の感触がこそばゆく、背中を伝ってエドワウの鼓動が聞こえてくるようだった。彼の手に触れれば、その手は一層強く彼女を抱きしめる。その感覚を以て、
夢子は初めてエドワウが甘えてきた時のことを思い出していた。
あの頃は、まだまだ小さかったエドワウを包み込むようにして抱きしめていたが、今では
夢子が包み込まれるようにして抱きしめられている。それでも、
夢子にはそれさえもがエドワウの成長を実感させるものでしかなかった。臀部の違和感にも目をつぶることにした。
エドワウは、腕を外すとき「ありがとう、
夢子」と呟いた。
「エドワウ様、私はあなた様に仕える立場ですので」
それに今までだってしてきたことですから、そう
夢子が付け加えると、エドワウは一瞬顔をしかめた。
「すみません、つい出しゃばったことを……」
「いや、いいんだ。……よければ今夜、僕の部屋に来てくれ」
その言葉の真意は
夢子にはわからなかった。
「……」
「相談したいことがある」
「私……でなければならないことですか?」
「ああ、
夢子との付き合いは長いからな」
いつも通りの余裕気なエドワウの微笑みを見て、
夢子はぼんやりと、これを最後にエドワウに安堵を与えるのはやめようと考えていた。
自分だって見合いをするのだし、そのうち家庭を持って子どもだってできるかもしれない。いつまでもエドワウとセイラを自分の子どものように扱って、干渉しすぎるのは良くない。
……
夢子はそう考えて、エドワウの提案を受け入れた。
その日、
夢子はそわそわとしながら家事を済ませた。今までにも掃除や洗濯のためにエドワウの部屋に入ったことはあるのだから、特別緊張するようなことではない。
だが、それは“エドワウの部屋”という、ただ彼がいるだけの部屋だったからだ。今夜足を踏み入れるのは、もしかしたら“知らない男の部屋”かもしれないのだ。
こんなに心の整理を必要とするなら、何か適当な用事を見繕って断れば良かったかもしれない。
夢子は自分の選択を後悔しながらも、断ることは決してできなかっただろうとも思った。
足音を立てないように、誰にも気付かれないように階段を上るのはこれが初めてだった。出所のわからない背徳感に襲われながら、
夢子は一段一段と歩みを進める。扉の前、身なりを気にして髪を整えた自分に嫌悪していた。
そっと扉をノックする。
「……
夢子か」
「はい」
「入ってくれ」
夢子が扉を開けると、そこには窓を開けて夜空を見ているエドワウの姿があった。レースカーテンとともに、細い金の髪が揺れている。その幻想的な姿に改めて目を奪われた
夢子は、彼に視線を向けられてその呪縛から解かれた。
エドワウの瞳は、夕方の瞳と似ていた。穏やかな碧色をしていながらも、その奥に炎が見える。にじみ出るような恐怖が
夢子の身を包み、体をこわばらせた。
「あの、エドワウ様……」
ゆっくりと距離を詰めるエドワウの表情は、読めなかった。
扉の前に立っていた
夢子は、1メートルとない距離にたじろいだ。扉を背にしてエドワウに詰められ、気付けば唇と唇が触れていた。その直前に見えたエドワウの表情は、彼女が見てきたどれとも違っていて、初めて見るものだった。
――いや、本当は
夢子もわかっていたし、知っていた。それでも知らないふりをして見過ごしてきたのが、この現状なのだ。
そのまま腰へと伸ばされる手。徐々に手を登らせて、
夢子のうなじへと辿り着く。そのまま後頭部を捕まえて、油断した唇の間に舌をねじ込んだ。
一体どこでこんなことを覚えたのか……初めは母親じみた思考を捨てきれずにいた
夢子だったが、そのうち胸が苦しくなった。それが酸素のためか、もっと別のものによるものなのかは彼女にもわからない。
逃げるように手のひらで扉の凹凸をなぞりドアノブに手をかけたが、エドワウの骨張った手がそれを阻止する。被せるようにして捕まえ、そのまま指を絡ませた。今にも崩れ落ちてしまいそうな
夢子を、エドワウが抱き留めていた。
だが、シャツのボタンに手をかけられようかとしたところで、
夢子がエドワウの体を手で押してしまう。上気した顔でうつむく
夢子を見ながら、エドワウは口元を拭った。乱れた彼女の髪を払ってやろうと手を伸ばすが、「やめてください……」とか弱い声が聞こえるだけだった。
初めての拒絶――そんな現実を受け入れたくないエドワウは悪人ぶる。
「主人のメイドへのお手付きなどよくあることだ」
「ちがう、ちがいます、いつものエドワウ様に戻ってください……」
「これが僕の本心だよ。
夢子のことをずっと一人の女として求めていた」
エドワウの言葉は、
夢子の目を見開かせた。
「
夢子もそうだろう? 僕の気持ちに気付いた上で、それでも僕を受け入れてくれていた」
今度は、エドワウの手を拒否することはなかった。否、払いのける程の力は、彼の告白によって奪われてしまっていたからだ。
夢子の髪を愛おしそうに撫でる指先はどこかぎこちなかったが、まるでそれさえもが演技の内なのではないかと思うほど、
夢子は目の前の現実を受け入れることができなかった。
エドワウの言葉は確かに間違ってはいないのだが、彼と
夢子とでは主語が少しずつ異なっている。決して、
夢子は彼の異性に対する好意に応えていたわけではない。
「私は、エドワウ様の母親の代わりになれないかと……」
夢子が吐き出した言葉に、今度はエドワウが目を見開く番だった。
「……そうか、それは悪いことをしたな」
エドワウは部屋の奥へと戻り、再び夜空を眺める。
「失礼いたします……」
夢子の足音が聞こえなくなると、エドワウはベッドにやりきれない身体を放り投げた。
ふたりのわだかまりは解かれないまま、とうとう
夢子が見合いをする日がやってきた。
「わあっ!
夢子、きれい!」
この日のために着飾った
夢子を見て、セイラは目を輝かせた。丁度通りかかったエドワウは、
夢子のいつもとは違う姿を見て一度固まってしまったが、「綺麗だな」と微笑んだ。
「お恥ずかしながら、これからお見合いをしてきますので、何か困った事があれば他の方に聞いてください。夜には戻りますから、それからで済むことでしたら私を待ってくだされば」
……そう言って出かけた
夢子だったが、まさか本当に何か困ったことが起こるとは本気で思ってはいなかった。
気持ち疲れた体でテアボロ邸の玄関扉を開けた
夢子は、他の使用人が騒々しくしていることに気が付いた。外着のまま慌ててついて行けば、その理由がセイラの発熱であることを知った。
夢子が帰ってきたことに気付いたセイラは朦朧とした意識の中で微笑み、ベッド横の椅子に座る
夢子の顔を見た。
「……どうだった?」
「素敵な方でしたよ」
「お兄様より?」
返答に困る質問に、丁度周りの人がいなくて良かったと
夢子は思う。
「それは……私はエドワウ様に仕える立場ですから、比べようがありません」
咳を込むセイラ。水を求めてゆっくりと起き上がった彼女の背中を、
夢子はやさしくさすってやる。
「無理してお話しにならないでください」
「いいの、私が聞きたいから……」
そう言う唇はいつもより血色が良く、頬は赤らんでいる。病気だと知らなければ、その薔薇が色づいたような美しさにため息をつく人もいたことだろう。セイラがこんな風に苦しんでいる時に隣にいてあげられなかったことを
夢子は悔やんだ。
「結婚するの?」
「いえ……」
「どうして? 素敵な人だったんでしょう……?」
夢子は、正直に言うべきか悩んだ。だが、潤んだ碧い瞳に見つめられては、正直に言うしかない。
「……結婚したらすぐにでも稼業を手伝ってほしいと言われまして……私としては、エドワウ様とセイラ様がここを出て行かれるまでお傍にいたいのです」
それは、目の前のセイラの状況を踏まえて即座に決めたものではなく、元々
夢子の心にあった思いだった。例え結婚するつもりだとしても、こんな様子のセイラを前にして別れを告げることなどできない。
すると、セイラが笑った。
「セイラ様…… !? 」
熱に浮かされて変になってしまったのかと心配すれば、セイラは「うれしいの」と弱々しい笑みを見せた。
「
夢子が、そう思って……くれてた、なん、て……」
力尽きたのか言葉が途切れ、そのまま空気に馴染むように消えて行った。
夢子はセイラの体を支えながら、横にしてやった。
替えの氷を持ってこようかとすれば、そこにはエドワウがいた。
「エドワウ様……」
「……すまない、聞くつもりはなかったんだ」
あれからふたりきりになるのを恐れていた
夢子だったが、エドワウの様子は今までと何も変わらなかった。その様子に安心しながらも、申し訳なさも感じていた。
「帰ってきて早々すまないな、
夢子」
「いえ、エドワウ様こそこのような時間まで」
「兄、さん……?」
セイラはエドワウの姿を見てホッとしたのか、そのまま眠ってしまった。
氷を取り換え、
夢子が部屋を後にしようかとすれば、「もう少しいてくれないか」と声が掛かる。
夢子は、エドワウのお願いには弱かった。
再び彼のの申し出を受け入れた
夢子ではあったが、気まずい雰囲気は受け入れられるものではなかった。
あの時、逃げようとした
夢子の手を掴んだ骨張った手。唇に触れた柔らかな感触。今までの
夢子の中のエドワウ像を壊してしまうのは簡単なことだった。だが、エドワウは
夢子が困惑し、涙目で自分を見つめる姿を何度も頭に思い描いていたのだ。
互いに言葉にすることがない想いは、相手の想いを勝手に推し量ってしまう傲慢さを生み出す。今も、全てを正直に伝えてしまおうという考えはふたりの頭には無かった。あくまで知らないふりをして、このままあの夜の出来事には蓋をしてしまうつもりでいる。
「お見合いはどうだった」
「あ、ええと……とりあえず、保留です」
「ふうん、断られたんじゃないだろう」
「ありがたいことに、向こうの方は乗り気のようで……でも、私はあまり今は結婚のことは考えたくなくて……」
「そうか……」
夢子の気持ちに沿ったように言葉を返しながらも、エドワウの心中は安堵で埋められていた。嘘だとしても、自分とセイラは大丈夫だから気にせずに結婚してくれとは言えなかった。
「その……この間はすまなかった。
夢子を傷つけてしまったと思っている」
「そのことなら大丈夫ですよ。突然のことに驚いてしまったもので……」
夢子はこれ以上深入りしたくなかった。もう一度エドワウに迫られたその時、自分が一体どうなってしまうのかが恐ろしかったからだ。今の彼女は、変化というものを嫌っていた。
「全てにお応えできるかは分かりませんが、何か困ったことがありましたら今までと同じように頼って下されば」
夢子がそう微笑んだのを見て、エドワウはどうしてそんな顔を向けるのかと胸が苦しくなった――また、期待してしまう。
「……てほしい」
「?」
「
夢子にいてほしい」
「そのようなことであれば何なりと」
エドワウは
夢子の肩にもたれかかった。彼が言葉にせずに出すサインが可愛らしくて、
夢子は好きだった。
「膝枕はいかがです?」
エドワウは素直に従った。窓の外の景色を見つめる彼の前髪を、そっと撫でてやる。
「エドワウ様の瞳には、輝かしい未来が映っていらっしゃるんですね」
「……
夢子の瞳には?」
「もちろん、エドワウ様とセイラ様のご立派な将来の姿です」
「そう……」
このまま朝が来なければいいとエドワウは思った。
ずいぶん昔のこと、アルテイシアが母親との別れを嫌がり、同じようなことを言っていたのを思い出した。きっと、こんな気持ちでいたのだろう、と。
朝、彼女の膝の上で目覚めて、それから一番に彼女の顔が目に入る。そんな生活がずっと続けばいいのに。……エドワウの子どもらしい願望が、胸の内でどんどんと膨らむ。
目を閉じて、与えられる優しさに甘んじる。髪を撫でる
夢子の手。それは遠い記憶の母親の手のように感じられた。
物心ついたころにはアルテイシアを守らなければならなかったキャスバルは、到底甘えられるような状況になかった。兄だからしっかりしなくてはならないという思いが大きくなりすぎて、うまく母親に甘えられないでいた。今だって本当はもっと甘えたいのに、そのことを上手く口にできない。
「僕は、立派な男になれるだろうか……」
「なれますよ、必ず」
「そう……
夢子が言ってくれるなら、なれるだろうな」
「ええ、もちろん」
目を開けて見上げれば、そこには自信ありげに微笑む
夢子の顔がある。
「……もういい、ありがとう
夢子」
エドワウは体を起こした。
「でも、エドワウ様ももう14歳ですものね。時が経つのが本当に早いこと……そのうち赤ちゃんなんか連れて帰ってきて」
一人で妄想に浸り、「それじゃあ、わたしはおばあさんですね」なんて先取りする
夢子を見て、エドワウは笑った。
「
夢子が? ずいぶんと若いおばあさんだな」
「そりゃあ、私がエドワウ様とセイラ様のお世話をしてきたと言っても過言ではないのですから。……ああ、何か嫌なことやつらいことがあったら、いつでも帰ってきてくださいね。美味しいお料理を用意して待っていますから」
「おいおい、気が早すぎるぞ
夢子。まだ家も出ていないというのに」
「それはそうですけれど、今までのことを考えればきっとあっという間なんですよ。こうしてエドワウ様やセイラ様のことを見守っていられるのも今だけだと思うと……」
言葉に詰まった
夢子を不思議に思いエドワウが横を向けば、彼女の目には涙が浮かんでいた。
「
夢子……」
エドワウは
夢子をそっと抱きしめた。今度は
夢子も受け入れた。
「きっと疲れが溜まっているんだろう。いつも色々と身のまわりのことを頼みすぎているからな」
「いえ……」
「セイラのことは心配しなくていい。きっと大丈夫だ」
「エドワウ様がそうおっしゃってくださるなら、きっとセイラ様は大丈夫なのでしょうね」
「ああ……」
抱きしめた身体は、小さく思えた。今まで包み込んでくれていた体も、一人の女性の肉体だった。母性という縦横無尽な存在ではなく、分け与えてくれていたものなのだ。
多くの人に守られ隠されてきた自分と妹の存在。妹以外に、初めて守りたいと思える人ができた。しかし、この手を伸ばすことがかえって危険に巻き込むことになってしまうことにエドワウは気付いていた。
何も無ければ、この関係性もなければ、今すぐにもう一度キスでもしたことだろう。今度は
夢子も受け入れてくれるという確信があった。
だが、エドワウは体を離した。例えそれぞれが互いに抱く想いが異なっていたとしても、同じ時間を共に過ごせるならばそれでいい。
「私がエドワウ様に慰められてしまいましたね」
「その何十倍も、僕は
夢子に助けられているよ」
「それは光栄です」
夢子が満足げに微笑んだのを見て、エドワウもつられて微笑んだ。
「あら、もう少しで氷が解けきってしまいそうですね。新しいものを持ってきます」
「ああ、頼む」
夢子は「すぐに戻ってきます」とだけ言って、部屋から出て行く――エドワウが犬の鳴き声が止んだことに気付いたのは、それから数分後のことだった。
2025/7/6