「ただいま」

 夕方5時。ソファに座って雑誌を読んでいた夢子は、聞こえるはずのない声に驚いて顔を上げる。慌てて雑誌を閉じ、廊下へとつながる扉を見れば――ドアノブがガチャリと傾き、本来ならばこんな時間にいるわけのない恋人が姿を現した。
「譲、二……おかえり……」
 目をぱちぱちとさせる夢子に、大友は「そんなに驚いたか」と何やら楽しそうに声を返す。
「今日って、早く帰るって言ってたっけ」
「いや? でも、たまには早く帰るのもいいかと思ってな」
 乳製品がたんまりと入っているショルダーバッグを置き、ジャケットをハンガーポールにかけながら、そうサラッと言ってしまう彼を見て、夢子は「そうだったの」と顔をほころばせる。
「ま、たまにじゃなくて毎日でもいいけどね」
 どこか機嫌の良さそうな大友につられ、夢子は惚けてみせた。そうしてそのまま柄にもなく“おかえりのハグ”でもしてみようかと思ったが、彼は「あ、手洗ってくる」と何にも気付かずに洗面所へと向かってしまったので、彼女は拍子抜けしてしまう。とは言っても、こんなことは日常茶飯事だった。夢子からのアピールにわざとなのか天然なのか気付かない彼に対して、彼女が少々くやしい思いをすることはよくあることなのだ。
 そうして戻ってきた大友は、特に夢子とスキンシップを取るということも無く、「これから夕食の準備か?」と訊いた。
「うん。まさか譲二がこんなに早く帰ってくると思わなかったから」
 大友が手を洗っている間に、夕飯は何にしようかと冷蔵庫を覗いていた夢子は、材料を取り出してエプロンの紐を結んでいるところだった。
「先にお風呂済ませちゃって」
 気持ち、“よく出来た妻”を演じるつもりでそう言ってみる。しかし、エプロンの紐がなかなか結べず、これでは格好もつかない。恋人の存在を意識しすぎるからかいつも通り手際よく着ることさえ出来ないでいると、それに気がついた彼が後ろに回って結んでくれ……るのかと思いきや、なぜかエプロンを脱がそうとしてくる。
「え、ちょっと、何」
 全く状況は読めない夢子ではあったが、大友に対する想いは誰にも負けないと自負している。「まさか、そういうプレイ!?」といかがわしい妄想を一瞬のうちにしてしまい、困った素振りを見せながらも、それならそれでも構わないと思ってもいた。
 だが、恋人は至って健全な理由から、彼女のエプロンを脱がそうとしていた。
「いや、今日は俺が作ろうかと思って」
「……譲二が?」
 驚いた夢子は、少々きつそうにエプロンを着る彼を見ていた。
「俺が案外料理得意だってこと知ってるだろ?」
「そうだけど……ほら、疲れてるだろうし、申し訳ないよ」
 今はオフシーズンではあるが、レース関係の仕事が全くないというわけではない。以前、サイバーフォーミュラのレーサーだったという縁もあり、オフシーズン中はサイバーフォーミュラのレポーターとして活動することがある。今日も土日関係無しにレース関連の仕事をしてきた大友に比べれば、仕事が休みの自分の方が疲れの度合いも少ないのだが……
「気にするなって、今日は料理したい気分だからさ」
 大友が、こうだと決めたらてこでも動かない人物であることを知っている夢子は、エプロンの紐をしっかり結んで腕まくりもして、すでに気合十分の彼の提案を素直に受け入れる以外に選択肢は無かった。どういう風の吹き回しかは分からないが、彼が自分から料理したいと言っているのだから彼女としては助かる。今日、お買い得な食材をスーパーで買い揃えてはみたもののいまいち献立を考えきれずにいたし、今だって、いまいち気分が乗らずにいた。
「……じゃあ、お願いしようかな」
 恋人の親切な申し出を受け、夢子は今日の夕飯を彼に任せることにした。

 ……任せたのはいいものの、何だか何も手につかない。それが、夢子の正直な感想だった。
 せっかく代わりに料理をしてくれているのだから、自分は先程の雑誌の続きを楽しんでいればいいのだが、トントントンと子気味良いリズムが右耳から入ってきて、ついちらちらと彼の背中を見てしまう。初めの方は数分おきに見ていたのが、ついには数秒おきに、そして結局はソファにて彼の料理を見守っている状態になっていた。

 思えば、大友が実際に料理をしている姿を夢子は見たことがなかった。レース前にはテントにこもって自炊生活をするのが彼のルーティンだが、それは一人になって感覚を研ぎ澄ますためという目的があり、もちろん恋人の夢子でも同行は許されていない。
 以前、大友のテントに忘れ物を届けに行った時は、すでに出来上がっていた彼の手料理を食べはしたが、どのように作っていたのかは見ることができていなかった。そして、その時に食べさせてもらったシチューの美味しさに、感銘を受けたのを覚えている。カレーやシチューなどはルーも売られているので、味付けで失敗してしまってまずくなるということはそうそうないのだが、その時に食べた大友のシチューは、今まで自分がルーを使って作ったシチューとは天と地の差もあるほど素敵な味をしていた。
 きっと、恋人が作ったものなのだという意識も作用してはいるのだろうが、実際に大友に尋ねたところ、彼の実家の大友牧場の牛乳など乳製品を隠し味に入れていると言っていた。その味を再現したい夢子は隠し味を教えて欲しいと言ったのだが、大友が「それは内緒だな」と少年っぽいいたずらな顔をして微笑んだことも、彼女はついでに思い出す。
 今でこそ、互いの生活を考慮した上で夢子が料理係になってはいるが、正直なところ、彼に自分の料理を食べてもらうのは不安だった。彼は、いつも笑顔で「おいしいな」と言ってはくれるのだが、内心、彼自身が作るものよりも美味しくないと感じていたとしたら……そんなことを考えてしまい、未だにシチューは作ることができずにいた。
 そんなこんなで、とにかく、台所に彼がいて、自分はただ料理が出来上がるのを待っておく、というのが夢子にとって違和感でしかなかった。彼が時折しているように、夕食準備中にお風呂に先に入るのも彼女には変な感じがしたので、結局、大友の料理の様子を見ることにしたのだった。

 黙ったままその背中に近づき、斜め後ろから大友の手元を見る……さすが、自分で得意だと言うだけはある。包丁を握るその手には、不安なぞどこにも無い。他の男の人と比べれば彼は自分で料理をする方だということは夢子もなんとなく知っていたが、ここまで手慣れているとは思っていなかった。
 よほど作り慣れている料理なのか、手際良くどんどんと材料の下ごしらえを進めていく。調味料だって、目分量といった感じで遠慮なく入れていく。未だにレシピが手放せない夢子からすれば、尊敬しつつも味は大丈夫なのだろうかと余計なお世話をしてしまうぐらいだった。
 そうしてふと、彼の手に視線が行った。にんじんや玉ねぎなどを細かく刻む包丁を握っている、その手。普段、自分が使っている道具であるはずなのに、いつもより一回り小さく見えた。
 確かに、夢子と比べれば彼の手の方が大きいので、小さく見えるというのはもっともである。結婚祝いでもらった夫婦茶碗も、それぞれが持っていれば同じ大きさに見えるのに、いざ洗うとなると彼の茶碗の中に彼女の茶碗がすっぽりと収まってしまうので、取り出すのに苦労することがよくあった。
 そして一番は、包丁を握ったり、菜箸を掴んだりする手の感じ。骨張って筋張って、血管が浮いて見える大友の手が、何となく夢子に唾を飲み込ませた。
 卵を割ってボウルの中に入れていくのも、殻を落とさずに綺麗に割っていく様子より、落ちていく黄味と卵白の滑らかさより、彼の手のほうへと視線が向かっていく。親指にグッと力を入れて、それでも全てを割ってしまわない繊細な指使いに、夢子はあらぬ想像をしてしまう。
「……はは、そんなに見られると緊張するな」
 さすがに夢子の存在と視線に気付いた大友は、手を水で洗いながらそう言った。
「あ、ごめんなさい」
「いや、別にいいさ。でも、そんなに見て楽しいものでもないだろ?」
「楽しいっていうか、すごいっていうか……」
 今まで考えていた不純なことを正直に伝えてしまう訳にはいかないので、夢子はそれらしく誤魔化す。
「だって、すごく手際がいいじゃん。私より上手」
「そう言って、毎日料理させる気だろ」
「譲二がしたいなら全然していいけど」
 夢子が否定しないことに、大友は笑う。夢子は「その横顔も好き」なんてしみじみと感じていると、彼の視線は奥のコンロで火にかけられていた鍋へと向かう。蓋を開けてお玉でかきまわすと、これまた慣れた様子で食器棚から小皿を取り出し、すくったスープをそこへ入れた。
「ほら、味見」
 目の前にずい、とスープの入った小皿を差し出される。驚いた夢子だったが、黄金に輝く透き通った液体を見れば素直に口に含んだ。……コンソメスープだ。
「……おいしい」
「だろ」
 上機嫌な顔の大友を見ながら、まるで餌付けされているようだと夢子は思ってしまう。もっとも、こんなにおいしい食べ物を彼から与えてもらえるというなら、大歓迎以外の何物でもないのだが。
 またまたそんな逸れたことを夢子が考えていると、大友は「もうちょっと待ってろよ」と言う。彼女がぼうっと彼を見ているのを、夕食の催促とでも勘違いしたのだ。
「ようし、ここからが本番だ」
 菜箸でよく溶いた卵を熱したフライパンに注ぎ、彼は再び気合いを入れるように腕まくりをした。これまた筋肉質な褐色の肌が見えて、夢子はそこに目が引き付けられてしまう。
 半熟状になった卵の上に彼が何かを入れたのも、必死にフライパンをゆすっているのも、彼女にはまったく目に入っていなかった。台所の熱気に当てられてか暑くなった夢子は少し離れ、後ろから彼の背中を見ていた。

(……また、筋肉ついてない? エプロン姿がミスマッチだけど、これはこれでいいかも。襟足、ちょっと伸びたかな。いや、髪全体のボリュームが増えてるんだ。ほんと、料理上手だな。フライパンも軽々しく持っちゃってさ。そりゃあ、あんなに筋肉のついた男の人の腕だったら、重いなんて感じないだろうけど……ああ、なんか今日の私、変なのかな。譲二の手元とか腕ばっかりに視線が向かってしまうし……)

「――ほら、夢子。どうだ?」
 気付けば見事に出来上がっていたオムライスと大友の明るい声に、夢子は慌てて意識を戻す。
「……あ、ほんとだ! 譲二すごい!」
 夢子は、上の空で返事してしまった。そして、食卓に並べられた立派なオムライスとコンソメスープの見栄えの良さを目の当たりにして、改めて大友の料理の腕の高さを実感したのだった。
 しかし、夢子の頭の中はそれどころではなかった。食事をしている最中も、大友から振られた話にはちゃんと受け答えをするのだが、いまいち心ここにあらず、といった感じで妙にそわそわとしている。幸い、作った本人でさえ夢中になってしまうような料理の美味しさに、彼の意識も食事にばかり向かっていたのがせめてもの救いだった。
 夢子は、恋人がせっかくこんなに美味しいオムライスを作ってくれたというのに、なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまった。しかし、心は正直なもので、いくら違うことを考えようと思ってもすぐに掻き消されてしまって、気づけばまた不純なことを考えてしまっているのだ。
 結局、ついでだからと大友が皿洗いまでしてくれることになり、これ以上彼を見ていたら我慢ができなくなると思った夢子は、言葉に甘えて先に風呂に入ることにした。



 湯船につかりながら、夢子は悶々としていた。ただ彼が夕食を作ってくれただけだというのに、その過程を見ていただけだというのに、一体自分はどうしてしまったのだろうか。腕だとか手だとかそんな体の一部分を見ただけでムズムズするほど、欲求不満だっただろうか。
 確かに、レースのシーズン中は大友が家に帰ってくることは少ないが、今はオフシーズンで彼は大体毎日家に帰ってくる。そして、それなりに夜の営みはあり、特に不満があるというわけでもない。足りないどころか、有り余るほどの愛情をもらっていると感じるほどだ。
 それでも今、料理をする恋人の姿がきっかけで、あらぬ想像を止めることができない。自分の頭の中を知るはずもない彼のいつも通りの態度が、かえって焦らされているように感じられてしまう。思春期の男の子でもあるまいし、こんな風になるなんておかしいはずなのに……そんなことを考えていても更に悶々とするだけで、夢子にはたった一つの解決法しか思い浮かばなかった。
 このままここで考え事をしていてはのぼせてしまいそうなので、夢子はザバッと湯船の中から出ると、ひとまず恋人にどんな言葉をかけるかを考えることにした。


***


 お風呂上がりの垂れた髪をワシワシと拭く大友を見ながら、夢子は「早く服着ないと風邪ひくよ」とだけ言った。というのも、彼は今、腰にタオルを巻いただけの状態で、今の彼女からすればあまりにも目のやり場に困るものだったからだ。だが、彼はいつも風呂上がりはこんな姿で、どちらかといえば夢子の方が「ちょっと太ったんじゃない?」などと何かしらのいちゃもんをつけて体に触れようとするので、大友はなんだか変だと思った。
「髪の毛を乾かしたら、ちゃんと服は着るさ」
「そう、だったらいいけど」
 大友がキッチンへと向かい、毎日の習慣である風呂上がりの牛乳を取りに行く。そうして<大友牛乳>と書かれた牛乳ビンを持って彼がリビングに戻ってきた時、そわそわとしていた夢子はついに本題に入ることにした。
「……明日、朝早い?」
「いや? いつも通りだけど」
「そう……」
 それから次の言葉が続かない夢子を見て、大友は「効果、あるもんだな」と思った――実は今日、彼はたまたまハヤトや新条と会ったのだが、その際、「時々は家事もした方がいい、もちろん喜んでもらったその後は……」といった話をしていたのだ。
 特にマンネリだとかレスだとかそういった不満を大友自身は抱えていなかったが、家事についてはおろそかにしているという自覚があった。“その後”のことはさておき、夢子の喜んだ顔を見れるというなら実行してみる価値がある。彼は思い立ったが吉日といわんばかりに、さっそく行動を起こしたのだった。

 夢子が明日の朝のことを訊いてくる時は、大抵今夜の誘いをしている時だと決まっていた。そして、決してこちらを見ず、それでもその頬を少し赤くさせているのを見れば、これ以上は彼女の口からは何とも言えないのだろうということが大友にも分かった。ということは、自分の口から言ってしまわなければならないのだが……少し、彼のいたずら心が顔を出してしまう。
「だから、明日は朝飯も作らなくて大丈夫だ。俺が作るし」
 話が思わぬ方向に逸れてしまったことに気付いた夢子は、驚いた顔を隠しきれずに彼を見てしまう。一方、全て分かっている大友は、わざとらしくにっこりと微笑んで彼女の顔を見る。まるで、さっきの言葉が今夜の誘いであることには全く気付いていないかのような様子で。
 もちろん、異議を申し立てたい夢子は何か言おうと口をパクパクとするのだが、自分からそれ以上言及するのが恥ずかしいのか、「そ、そう……」と無理矢理了承の言葉を紡ぐ。顔には感情がありありと出されているのに無理に平常を装うとする恋人が可愛らしくて仕方がない大友は、ついついにやけてしまいそうだった。が、さすがにこれ以上焦らしては機嫌を損ねてしまいそうなので(どちらかといえば、自分の方が持たなさそうなので)彼女が期待しているであろう言葉を伝えることにした。
「俺が明日の朝飯は作るから、さ」
 ソファに座る夢子に背後から近づき、耳元でささやく。

「今夜はいいよな?」

 すると、まるで電気でも流されたかのように夢子はすくっと立ち上がり、「は、早く髪の毛乾かそうか」と上ずった声で言う。そうして、大友の髪を犬にでもするようにワシャワシャとタオルで拭くと、慌てたようにドライヤーを取りに行く。
 そんな落ち着きのない夢子の背中を見て彼は、「確かに、ハヤトと新条の言うことももっともだな」と笑みを隠せずにいた。

 ……そして、後日。あの日誘ったのは、大友が家事を手伝ってくれたご褒美ではなく、彼の料理をしている姿がグッと来たからということを正直に伝えた夢子。まさかそんな理由からだったとは微塵も思っていなかった大友は、やや拍子抜けしたとともに、今度からは自分の料理が“合図”になってしまいそうだと、ひっそりと心配しつつも期待を膨らませるのだった。


END