久しぶりに地元・北海道に帰ってきた私は、母親から当然のようにして野菜の入った段ボールを渡された。どうやら、普段からお世話になっているご近所さんに渡してこい、ということらしい。せっかく娘が帰ってきたというのに(それもお見合いのために!)、早速こき使おうだなんてなんて母親だ……なんて言うのも馬鹿らしく、私はさっさと用事を済ませることにした。

 私が向かったのは<大友牧場>――大友家と夢野家は比較的家が近く、昔から親同士の交流があった。大友家の長男と私は同い年で、いわゆる幼馴染でもある。牧場の広大な敷地内で大友家の子どもたちと遊びながら、牧場の仕事を手伝ったことも多々あった。
 そんな、通い慣れた、それでも最近は顔を覗かせていなかった大友牧場に着くと、私は母屋の方へと向かった。

「……夢子ちゃんか?」

 馴染みのある声に気付いて振り返れば、そこには大友牧場の主が立っていた。私からすれば幼馴染の父親であり、第二の父親のようなものでもある。納屋で農機具の手入れをしていたらしく、エプロンで汚れた手を拭きながらこちらに近寄ってきた。
「お久しぶりです、おじさん」
「なんだいなんだい、帰ってきてたのか」
「実は、ついさっき。牧場の方はどうですか」
「まあ、ぼちぼちといったところだね。……そうだ、今年も仔牛が生まれてね。後で見に行ってごらん」
 大友牧場では乳牛を飼育していて、北海道にいた頃は仔牛が生まれたと聞けば飛んで見に行っていた。おじさんの話によると、仔牛を生んだその母牛はいつの時か私が毛を梳かしてやった仔牛らしい。私が驚けば、おじさんも「時の流れは早いな」と昔と変わらない人のよさそうな笑顔を見せた。その顔を見たら自然と幼馴染の顔を思い出して、当然ではあるけれど「やっぱり親子だなあ」なんて思った。
「これ、おすそ分けです」
「いつもすまないね、重かったろう」
「そんな大したものじゃないですよ、これくらい。玄関の方に置いておいていいですか?」
「ああ、頼むよ」
 おじさんとの久しぶりの会話を楽しんだ後、次は母屋へと向かう。
 大友牧場は広大な土地を持っているので、おじさんたちが住む家は舗装された道路からずいぶんと入り込んだところにある。“大友牧場”には確かに比較的すぐに到着するけれど、“大友家”となるとやや話が変わってくるというか……それでも、昔から通い慣れている道を懐かしむ気持ちで歩いていれば案外すぐに着いた。
 インターフォンを押せばおばさん(幼馴染の母親、あるいは牧場主夫人)が出てきて、「あらあら、まあまあ!」というやや大げさな言葉を合図に世間話が始まった。もちろん、この感覚も懐かしいものに含まれる。
 同級生の子が結婚しただとか、誰それが東京で頑張っていてテレビにちょっと映っただとか、近所の人が赤ちゃんを連れて帰ってきただとか……私には少々耳が痛い話もあったけれど、これも円滑な人間関係のため。そして、もともとおばさんはそういった話が好きなのだということは知っているので、他意はないのだと思いたい。
 一通り最新のニュースを伝え終わると、おばさんは思い出したように言葉を付け加えた。
「そうそう、譲二も帰ってきてるのよ」

 そう、“譲二”こそ私の幼馴染である、大友譲二のことだった。

 幼い頃からレーサーを目指して頑張っていて、高校在学中にも様々な大会に出て目覚ましい記録を残している人物。卒業した後はレーサー一本で頑張っていて、今もまだまだ夢を追いかけ続けているらしい。
 幼い頃、牧草を集めるためのトラクターに乗っては楽しそうにハンドルを握っていた譲二を、昨日のことのように覚えている。まだまだ小さな子どもだったあの時は、あんなに狭い運転席の中にどうにかふたり収まって、椅子を分け合うようにして座ることができていた。そして、その後しばらくしてから親に見つかって、追い出されるようにして逃げるのがお決まりだった。私も共犯者にされていたことを思い出す。あの無邪気な笑顔で「乗れよ」なんて手を差し出してくるから、私も悪いことだなんて忘れて笑顔で手を掴んでしまっていたんだっけ。
 それが、今では彼がハンドルを握るのを誰も咎めはしない。トラクターの何十倍も速い車を操って、競い合っている。数年前の事故の時は、さすがに彼の家族もレーサー復帰に反対している様子だったけれど、今は何だかんだラリーレーサーとして頑張っているらしい。
「昼前は家にいたんだけどね。手伝いもしないで、どこに行っちゃったのかしら。……そうだ! 夢子ちゃん、譲二を探してきてくれない?」
「え? 私がですか?」
 突然振られて、びっくりしてしまう。帰って来てそうそうおつかいを頼まれたかと思えば、今度は人探しを頼まれてしまうなんて。休む暇もあったもんじゃない。
「電話したらいいんじゃないですか?」
「それがね、譲二ったら携帯を置いて行ってるの。いくら持っていけって言っても、忘れて行っちゃうのよね」
 ……さすが元・サイバーの自然児ですね、なんて言えるはずもなく、私は「それじゃあ、探すしかないですね」と苦笑いをする。そして、それと同時に、この感覚も何か身に覚えがあるのだということを思い出していた。
「助かるわ、夢子ちゃん。それじゃあよろしくね」
 “よろしくね”と言う時の顔に何か怪しいものがあったような気がしたけれど――深追いしてさらに厄介事を頼まれてはかなわないので、私は気付かなかったふりをして大友家を出た。

 ふらふらといつの間にかいなくなっている譲二を探してこいと頼まれるのは、よくあることだった――高校生までは。だからこそ、今、私がこうやって譲二探しを頼まれるのも変に納得してしまうことでもあった。
 それより、譲二も譲二だ。いくらなんでも、この時代にスマホも持たずに出歩くなんてさすがに不便だろう。それに、毎度毎度、見つけにくいようなところにばかり隠れるから面倒極まりない。森の中のちょうど木陰になっているところだとか、野原と溶け込むように寝そべっているだとか、何となく死角になりやすいところにいることが多い。
 思春期を迎えていて家に居づらいだとか、一人になりたいだとか、そんな同情をしようと思ったこともあったけれど、当の本人は私の姿を見つければ「どうしたんだ、夢子」なんて何てことない顔で言うものだから、ただの自由人なだけだ。譲二の親に頼まれるたび、私は必死になって譲二を探して、日が暮れかけてお腹がすき始めたころにやっと彼を引き連れて家に帰ることができた。きっと譲二は私の苦労も知らないでいて、私の姿を迎え&夕飯の合図にでもしていたんだろう。呑気に「帰るか」なんて言うものだから、私は昔っから損な役回りだ。
 今回もそんな苦労を味わうことになるんじゃないかという不安もあったけれど、私には思い当たりがあった。
 どれだけ見て回っても見つからなくて、中々見つからないな、と感じたあの日。まさか、譲二は私との追いかけっこを楽しんでいるんじゃないか、なんて思ったあの日。
 ……彼はいつも、牧場の外れの小川沿いの草っ原に寝転んでいた――あの時と同じように、草を咥えて雲のゆっくりとした動きを追いかけている譲二を見下ろす。
「よ、自然児」
「……ん? 夢子か」
 こんなやり取りをまたすることになるとは思っていなかった。自然と口から出てきた言葉に、これまたすんなりと譲二が言葉を返してきたのも意外だったけれど。
 あの頃は、お互い学ランとセーラー服の制服姿で学生かばんをそこら辺にほったらかしていたのに、今は普段着なのだというのが変な感じがする。譲二なんか、レーサーだということを知らなければ仕事もせずにだらけている人に見える。何だか少し笑いたくなった。
「変わらないね」
 あの頃と同じように譲二の隣に座る。
「そうか? 変わったろ、お互い」
 体を起こした譲二は、私の顔を見て笑った。私もつられて笑う。顔つきは確かにたくましくなったかもしれないけれど、愛嬌のある笑顔の具合は変わっていない。そして、様々なことを経験したからか、どこか哀愁漂う雰囲気にどきりとした。
夢子は東京で頑張ってるのか」
「うん、ぼちぼち。譲二は? なんだっけ、WRXじゃなくて――」
「WRC」
「そうそう、それのレーサーで頑張ってるんでしょ。あんまり見れて無いけど」
「普通のテレビじゃ見れないもんな。日本で開催するのも少ないし」
「いいな、海外とか行きまくりでしょ」
「そりゃそうだけど、仕事だからな。それに、俺はそんなに海外とかには興味ないしさ」
「そうなの? だったら私が代わりに海外に行きたい」
 素直な感想を伝えれば、譲二は「はは」と笑う。
「だったら、夢子もレーサーになればいいさ」
 無理なことを当然のように言ってのけるけれどそこには嫌味が無い彼の物言いを、懐かしく感じていた。そんな雰囲気を心地よく感じていた人は他にもたくさんいて、愛想のいい譲二は様々な人に囲まれながら学校生活を送っていたことを思い出す。どこまでも変わっていない譲二の姿を目の当たりにして、ふと、さっきの『変わったろ、お互い』にはどんな意味が含まれているのかが気になった。
「今は仕事無いの?」
「ああ、オフシーズンだからな。しばらくは家の手伝いでもしながらのんびり過ごすさ」
「親孝行だね。……あ、そうだった。私さ、さっき譲二の家に野菜を届けに行ったの。そうしたら、おじさんとおばさんに会って、おばさんに譲二を探してきてって言われて、それで今ここにいるんだけど……」
「そうだったのか。……もしかしたら、見合いのこと――」
「お見合い !? 」
 きっと、今の私はとんでもない顔をしているんだろう。私の反応を見た譲二は、「そんなに驚くことかよ」と引き気味に答えたから。
「俺たちぐらいの年齢だと、結婚勧められることも少なくないだろ」
「そりゃ、そうだけど……実は、私もお見合いするんだよね。今回も、そのために帰ってきたっていうか――」
「そうだったのか !? 」
 その時の譲二の顔。さっきの私の顔がこんな具合だったなら、確かに引き気味になってしまうかも。……というのはさておき、お互いにお見合いをするのだという事実が発覚したところで、私は胸にひとつの予感を抱いていた。「こりゃ、驚いたな……」なんてしみじみとしている譲二を尻目に、私はごくりと唾を飲み込む。
「まさか、私たちで……じゃないよね」
 偶然ふたりの帰省のタイミングが合って、それでわざわざおばさんから譲二を探すように頼まれて、それで幼馴染で……これらの事実を踏まえれば、私たちがお見合いの相手同士なのだという可能性もゼロじゃない。そうだと分かった途端、私の心の中には突然まばゆいばかりの光が差し込んできたような気がしたのだけれど……
「もしそうだったら、親父もおふくろもそう言ってるはずだぜ」
 譲二のあまりにも淡々とした口調に、私の中の淡い期待は無残に崩された。
「そっか……」
 私のお見合い相手が譲二だったらいいのに――そんなことをふと思ってしまうのは、未だに彼に対する未練を忘れることができずにいるからだ。

 高校生の時、私と譲二は付き合っていた。

 腐れ縁のようにして長く続いた関係は、お互いを男女として意識させ、恋人関係へと発展させるのもそう難しいことではなかった。特に何か問題が起こったわけではなかったけれど、卒業後はそれぞれの進路が別れて自然消滅した。
 その時の私には、譲二が私のことを恋愛的な意味で好きだと思ってくれているのか自信が無かった。なんだかんだよく一緒にいたし、まわりからも付き合ってるんじゃないかなんて言われては、そのように振る舞うのも当然だと思っていたせいで。

『俺たち、付き合うか』

 ある日の帰り道、そうサラッと言った譲二の顔はあまり覚えていない。その言葉があまりにも嬉しくて、この緊張を知られたくない私はうつむいていたから。
『うん……』
 譲二の方からそう言ってくれたことに、私は一瞬浮かれもした。けれど、それから特にふたりの関係性が変わったわけでもなければ、恋人同士がよくするようなことも無かったし、これまでと何も変わらなかった。
 極めつけは、クラスの違う譲二におばさんから頼まれたお弁当を届けに行った時。前よりは人の目も気にせずに堂々と届けに行くことができるな、なんて思っていた。
 お弁当を渡して自分の教室に戻ろうとしたところで、やっぱり「一緒に帰ろう」と伝えようと思った時。それは教室から聞こえてきた。
『なんだ大友、愛妻弁当かぁ?』
『ちがうよ、俺が忘れてたのを届けてくれただけだよ』
『そうだよなぁ。なんてったって、将来を誓い合った仲だもんな』
『……違うって、あいつはただの幼馴染だからさ』

 ただの幼馴染。

 ……その言葉は私の胸にグサリとささった。
 足が動かない、顔がひきつっていく――ふたたび譲二のクラスに戻って声を掛けるなんてできそうにもなくて、私は無理に気持ちを抑えこめて自分の教室へと戻った。この言葉があまりにもショックで、それから私は譲二に対して素っ気ない態度しかとることができなかった。
 単刀直入に「譲二は私のことをどう思ってるの?」と訊けばすぐに解決したのかもしれないけれど、その時の私にはそんなことを聞いてしまう勇気なんてどこにも無かった。例え訊けたとして、もし譲二が「別に好きじゃない。まわりのやつらがあんまりうるさいから、ちょっと言ってみただけだ」なんて言ったら。簡単に言いのけてしまう姿が容易に想像できて、私はそんな想像を現実にしたくはないと思った。
 それに、譲二に対して好意を寄せている子がいることも知っていたし、例え確信は無くても、このまま自分が一番譲二に近い存在でいられるなら構わなかった。誰にでも分け隔てなく接する譲二は、世間一般的には二枚目ではなくても(もちろん私にはかっこいい人物として映っているけれど)、十分モテる要素を持っていた。その自然体が、変に異性の目を気にするような年頃の同年代よりも大人びて見えて、無邪気な笑顔がもっと幼い子どものように見えて、ひそかに女子の支持を集めていた。時には、積極的にアピールしてくる子だっていたし、もしかしたら譲二は色恋には興味が無くて、女子からのアピールを避けるために私と付き合おうなんて言ったんじゃないかと考えもした。
 けれどその反面、都会での新しい生活の中では何も引きずることなく新鮮な気持ちでいることができた。それでも、新たな出会いを求めるとなると億劫になってしまうし、何かと譲二の存在がちらついた。
 譲二とは自然消滅したのだし、今の私は彼にとってただの幼馴染でしかない。それなのに私はふとしたときに譲二のことを思い出して、もう一度あの頃に戻りたいな、なんて都合のいいことを考えている。そして、お見合いをしてしまうのだということを、一方的に悲しんでいる。
 だけれど、その気持ちを素直に伝えることなんかできないし、伝える資格だって持っていないから、知らないふりをするしかない。

「結婚、するのか」

 結婚したいと思っている相手から直球の質問を投げられて、私は返答に悩む。言えるものなら言いたい。“譲二となら、結婚する”と。だけれども、とてもそんなことを言ってしまえるような関係性ではないことは重々承知している。
 わずか、ほんのわずかだとしても、譲二も私と同じ気持ちでいる可能性にかけたいところもある。余裕気に「もちろん結婚するよ」と言いたい気持ちもあるけれど、すかっとした気分のいい笑顔で「そうなのか」と言われてしまえばそれはそれで傷つく気がするし……
「う……ん」
 悩んだ末、曖昧な返事を返せば、譲二は「どっちだよ」と苦笑いした。
「……悩んでるの。本当はしたくないけど、仕事も何だか行き詰ってるし、親だって結婚しろってうるさいし」
「まあ、親がうるさいのは確かだな」
「でしょ? ……でも、なんか結婚に逃げるみたいで嫌だな。好きになった相手ならまだしも、よく分からない人と結婚のために会うっていうのも」
 それも、私の本音ではあった。譲二と結婚できるなら、それは嬉しい。けれど、仕事を中途半端で辞めるのも格好がつかないし、結婚頼りに生きているだなんて譲二に思われたくない気持ちもある。
「譲二は? 今回お見合いする人と結婚するの?」
「……まあな。俺もこれからラリーの方で頑張るつもりだし、支えてくれる人がいた方がいいっていう周りの人の意見も一理あると思うしな」
 私は言葉を返せなかった。
 幼馴染だからといって、相手の結婚の自由まで制限する権利はない。彼がしたいと思うならば、しかるべきタイミングでするべきだ。
 ずっと幼馴染のことが好きで、忘れられずにいるのは私だけで、譲二は私のことを異性として魅力的に思ってはいないのだろう……そう考えてしまえば、私にはその場しのぎの言葉しか吐けなかった。
「……なんだか、お互い大人になったね」
 その言葉は、確かに譲二に投げかけた言葉ではあったけれど、それは私自身への暗示でもあった。子どもじみた恋心にいつまでも蹴りをつけられない、未練たらしい私に無理矢理に言い聞かせるための。
「でもさ、私なんか、今時お見合いをするのに相手の顔もまだ知らないんだよ。相手も北海道の人だから気が合うと思う、ぐらいしかお母さんも教えてくれないし」
夢子もなのか……?」
「“も”ってことは……譲二も? 教えてもらってない?」
「ああ、俺も北海道の人だとしか言われてなくてな」
 お互い、自分の親のいい加減な具合にため息をついて、それが同時だとわかると笑う。あの頃と同じように、無邪気に笑う。
「結婚しろ、結婚しろ、って言うわりには、ほーんといい加減だよね」
「だな。まったく困るよなあ」
 譲二は半ば呆れたようにそう言って、そのまま空を見上げた。私も、譲二の視線を辿るようにして空を見た。
 それから、そろりと視線を下ろして、バレないように譲二を見る。あの頃と変わっていない横顔。その横顔が、私をせつない気持ちにさせた。
 ついに、結婚してしまう。よく知らない人と譲二は結婚してしまう。幼馴染という関係性がこんなところで邪魔をしてくるとは思いもしていなかった。
 譲二の横顔を穏やかな気持ちで見つめることができる、この時間が永遠だったらいいのに。このまま、私はずっと譲二の隣にいられたらいいのに。

「帰るか?」

 私の視線に気付いた譲二は、微笑みながらこちらを見た。きっと、帰ることを急かしているとでも思ったんだろう。ほんと、にぶいんだから。
 でも……譲二は、私の本心に気付かなくたっていい。
「……うん」
 立ち上がって服に付いた草を払うと、ふたりで帰路についた。


***


 お見合い当日。その日は朝からてんやわんやの大騒ぎだった。
 前日になって、あれがいるだのこれの方がいいだの、それなりにいい衣装を用意するということで、急いで準備するハメになった。……思い出せば、いっつもこんな感じな気がする。
 まあ、それはそうとして、無事に準備が終わると急いでお見合い会場であるホテルへと向かった。

 中に入ると、ホテルの中はそれなりに豪勢だった。高校生の頃、大きなホテルが出来ると耳にして気になっていたホテルではあったけれど、完成したのは私が東京に行ってからだった。
 いわゆる観光客向け(それも富裕層向け)のもので、地元の住民にはあまり縁のない建物だと聞いていたので、今回、お見合いのために中に入ることができ、食事まで楽しめるというのは中々嬉しいことだった。お見合いをしなければならないことに対しては不服だったけれど、美味しい食べ物がついてくるというのならば仕方がないと思えるくらいには。
 ホテルの名前を聞いた時、そこでお見合いをするのかと驚いたけれど、お母さんの話によると「費用は気にしなくていい」らしい。それはつまり相手方が払ってくれたということだと読み取れ、中々太っ腹なのだと思った。お金持ちならいいかもしれない。結婚は、何だかんだお金が大切だろうし。
 けれど、それと同時に、こんなに手厚く準備されてはそうそう断ることはできないのではないかとも思ってしまう。人生の岐路に立たされていると思うと、途端にネガティブになってくる。……あー、顔写真も見せてもらえなかった時点で、無理だと断れば良かった。結局は、誰でもいいから結婚して、周りから口うるさくされることから逃げたかっただけだったんだ。

 どうか素敵な人でありますように……強く願いながら、部屋の扉の前で立ち止まる。
 この扉を開いたら、私の運命が決まる。これが、まさしく運命の扉なのかもしれない。
 高鳴る胸で深呼吸して、私は部屋の中へと入る。

「ああどうも、初めまして……って、夢子 !? 」

 なんと、そこにいたのは幼馴染の、あの、大友譲二だった。

「じょ、譲二 !? 」
「一瞬誰かと思ったけど、夢子……だよな?」
「う、うん。そうだけど、どうしてここに……」
 どうして、譲二がここにいるの?――私の頭の中は混乱して、その場に立ち尽くすことしかできなかった。それから、私のお見合い相手はもしかしたら譲二なのかもしれないという期待が胸の中にこみあげてきた。だけれど、それがもし本当だったとしたら、私は嬉しすぎてどうしたらいいのかわからない。
「もしかして、部屋を間違えてるんじゃない? きっと今頃、お相手の人が待ってるはずだよ」
「いや、夢子の方こそ間違えてるんじゃないか?」
 散々、母親から「この部屋だ」と念を押されたのだから、間違えは無いという自信はあった。きっと、譲二だってそうなんだろう。
 けれど、ここまで互いに引かないとなると、大元に確認を取るしかない。……このお見合いをセッティングした、自分の母親に。
「仕方ない、ちょっとおふくろに聞いてくるか」
「わ、私もお母さんに聞いてみる」
 そうしてふたりで勢いよく扉を開け、慌ててロビーへと向かう。すると、そこには親しげに話す母親たちの姿があった。状況が上手く呑み込めないでいる私に対して、お母さんはなんてことのないように話しかけてきた。
「あら、ふたりとも。どうして出てきたの?」
「どうしてって……私と譲二が、どうしてか同じ部屋で鉢合わせちゃったんだけど……」
「おふくろ、俺の見合い相手って……」
 お母さんとおばさんは無言で顔を見合わせ、それから微笑む。
夢子ちゃんよ」
「じゃ、じゃあ、私のお見合い相手は……」
「そりゃあ、譲二くんに決まってるじゃない」
 夢子と譲二は顔を見合わせる。
「ほら、ふたりとも部屋に戻った戻った。せっかくホテルのコース料理を食べられるんだから、楽しんで来なさいよ」
「あ、ちょっと譲二」
 譲二の母親は、息子を呼び止めると耳元で何か話しているようだった。私には何も聞こえなかったけれど、その後私を見た譲二の顔が少し赤くなっているような気がした。
「どうしたの譲二」
「いや、何でもないさ。それより、早く戻って料理を楽しもう」
 そっと腰に回された腕に、私は驚いてしまう。 
 もしかして、現実じゃなくて夢なのかもしれない。……いや、夢なら夢でいい。

 私は、譲二のエスコートに身を任せた。


***


 コース料理は、とにかく美味しかった。日頃食べ慣れないものばかりでは、こんな薄っぺらな感想になってしまう。
 部屋やホテルの雰囲気にいまいち落ち着かないのは私だけではなかったようで、譲二の提案どおりホテルの庭園を散歩することにした。青空の下、青々と茂る緑を見ている方がまだ馴染みがある。
「はあ、食べた」
 心なしか大きくなったような気がする自分のお腹をさすっていると、譲二も同じような仕草をしていることに気付く。思わず笑ってしまって、何も知らない譲二に「何だ?」と不思議そうな目を向けられたので、「何でもないよ」と返しておいた。
「……でもまさか、譲二とお見合いだったなんてね。改めて考えると、すっごいサプライズっていうか」
「そうだよな、俺も驚いたさ」
 食事の美味しさで忘れてはいたけれど、結局、私と譲二のお見合いは互いの母親によって仕組まれていたことが判明した。そんなことも知らずに、将来や結婚について語り合ったのに……こんなことになるのなら、正直先に教えて欲しかったぐらい。呑気に全てを明かした相手とお見合いだなんて、なんだか格好がつかないし。
 そして、思わぬチャンスが迷い込んできたと、未練を隠せなくなってしまっているのに。

 あてもなく歩いていると、屋根付きの休憩所を見つけた。そこにはおしゃれなデザインの椅子と丸テーブルがあって、きっとこんな日に優雅なティータイムを送るにもってこいな雰囲気を醸し出していた。
 お互いドレスアップしていること。そして、目の前に広がるよく手の行き届いたガーデン。こんな光景を目の前にして、非日常感に包まれる。大きな噴水が太陽の光をキラキラと跳ね返していて、ただその様子をぼーっと見ているだけでも時間を過ごせそうだった。
 こんな風な景色は、おとぎ話やドラマだとか創作物の中の世界だけのものだと思っていて、これまた自分には縁のないものだと思っていた。おとぎ話の世界の中に入ってしまったと思えるくらいなんだから、もちろん、譲二は“王子様”なワケで……譲二のかしこまった姿なんて初めて見たけれど、案外似合っているかも。
 ネクタイなんて、自由を好む彼が最も嫌いそうなものだと思っていたけれど、今日のためにきっちり結んだのだと思うと微笑ましい気持ちになる。きっと、ネクタイを緩めることだって知らないんだろうけど、もし慣れた手つきでそうされたら鼻血ものなので、やっぱり知らない譲二のままがいいや。
 服装一つでやけに大人っぽく見える譲二に、少しどぎまぎとする。けれど、私だってそれなりに着飾ってきたし、お似合いの二人に見えるかな。でもそれよりも、譲二から私の服装に対する言及が欲しいかもしれない。
 ……そんな乙女心を知らない王子様は、普段と変わらない視線を私に送った。
「一昨日、言ってたことだけどさ」
「ん?」
「今回の見合い相手と結婚するって話」
「ああ、そう言えばそんなこと話したね」
 今の今まで意識していたのに、わざとらしく口から出た言葉。素直になれない自分が嫌で、それでも譲二から辛い現実的な言葉を吐かれるのはもっと嫌。その苦痛に耐えられるように、安全策を張り巡らしているようなものだった。
 今回のお見合いで結婚を決めるつもりでいたのは本当だった。ずっと未練を持っていた譲二が結婚するというなら、私はいつまでも夢を見ているわけにはいかない。いつまでもこのままではいけないということは今までも薄々考えていたことで、よっぽど何か問題が無い限りお見合い相手のことを肯定的に受け入れるつもりでいた。
 けれど、それは全くの赤の他人とのお見合いを想定した場合のことで、幼馴染のことを想定していたわけではなかった。それも、ずっと好きで、結婚を夢見ていた幼馴染のことを。

 もし、幼馴染が、譲二がお見合い相手だった場合、私はどうするつもりでいたんだっけ?

 今までに何度も考えて頭に残っているはずの自分の思考を辿って思い出そうとしてはみるけれど、譲二がそわそわとしていることに気付いてしまえば考えるのも止まってしまう。
 スーツが窮屈そうに見える体つきに成長しているくせに、その横顔のどこか少年らしい雰囲気だとか無造作な髪型は変わっていない。いつも何となく目についていた長い睫毛は、伏し目がちになったり、遠くを見たりする瞳に丁寧についていく。そうして譲二の顔が私の方を向いた時、互いの視線がばっちりとぶつかってしまうのは必然だった。
 ……こんな風に真剣なような、どこか思いつめたような瞳の彼を、いつの日か見たことがあるような気がする――そうだ、サイバーフォーミュラに挑戦すると教えてくれた時の目だ。
 あの時は妙に覚悟が決まっていて、例え「ダメ」と言ったとしても、それは言葉だけの意味を持たないものに成り代わっただろうと思うほどだった。もちろん、その時は否定の言葉をかけることはしなかったけれど、今回はどうだろう。私は、これから譲二の口から出てくる言葉に対して自分の意志を伝えることはできるのだろうか。
「……夢子
 視線を少しもずらさずに呼ばれる名前。その瞳の中に吸い込んで行って、まるでふたりきりの世界になってしまったみたい。何も言葉が出てこないかわりに、譲二の瞳を捉え続けた。


「俺と、結婚してほしい」


 その言葉は、ずっと待っていた言葉だった。

 無意識のうちに唇が開く。すぐに言葉を返したいのに思考がどんどんと広がって行って、自分の鼓動の音だけが頭中に響いている。譲二にまで聞こえてしまうような気さえしていた。
「……はは、突然こんなこと言っても驚くだけだよな。夢子だって東京の方で、その、色々とあっただろうし、今さら俺がこんなこと言うのもどうかとは思ってる。だけど、この気持ちは適当なものなんかじゃなくて……ああ、何て言えばいいんだ」
 照れたように頭を掻いて、目線を反らしがちにそう言う譲二の頬が少し赤くなっているのを見て、幸せな気持ちになる。自分と同じ気持ちを譲二も抱いてくれていたことに安堵した。
「一昨日は『次の見合いで結婚する』とは言ったけど、やっぱり……俺は夢子じゃなきゃだめだ」
 譲二の瞳は、私の答えを促していた。その瞳はやはり切羽詰まった様なせつなさを持っていて、今すぐに自分の気持ちを伝えなければならないと思った。
 もう、何も遮るものも、心配することもない。互いに同じ気持ちなのだと分かった瞬間、それだけで何か肩の力が抜けるような気がした。
 心の中で、無意識のうちに一線を引こうとしていた。サイバーフォーミュラに出場して、WRCでレースに復帰して注目を浴びる有名人の彼と、そんな関係を築けるような人間ではない。いくら幼馴染だとしても、そんな都合のいいことなどどこにもないと、常識と現実を引っ張り出して自分の本当の気持ちを奥底へと隠していた。
「譲二……」
「別に、夢子を困らせたいわけじゃないんだ。返事だってすぐにとは言わないし、誰かいい人がいるならその人と――」
「……いないよ」
「え?」
「私には、譲二以外にいい人なんかいないよ」
 どんな時だって、私の心は譲二を求めていたから。

「私も、譲二と結婚したい。結婚、しよう」

 そう言った途端――譲二は人目も憚らずにがばっと抱きついた。
「ちょ、ちょっと譲二!」
「あっ、悪い!」
 たまたま庭園は貸し切り状態だったから良かったものの、私の心臓は今にも破裂してしまいそうだ。照れから震えそうな手で譲二を引きはがして、私はドキドキをどうにかこうにか抑え込もうとする。
「本当か? 本当なのか?」
「本当だってば、嘘ついてるように見える?」
 譲二の顔を見つめて、自分の気持ちを伝える。そうすれば、譲二の表情は徐々に柔らかくなっていった。
「良かった……」
 深い息を吐く譲二を見れば、極度の緊張状態にあったことがうかがえる。私だって、緊張していたけど。
「断られたらどうしよう、って不安だったんだよ」
「そ、それじゃあ、私の譲二への気持ちに気付いてたわけじゃないの……?」
「もしかして、夢子は俺のこと――」
 自分で墓穴を掘ってしまった気がする……ええいままよ、どうにでもなれ!

「そう、ずっと好きだったの。何なら、譲二と結婚したいと思ってた」

 驚いた譲二の顔が見えて、私はやっぱり恥ずかしくなった。自分の気持ちを素直に口にするだけのことが、こんなにも難しいなんて。
「……都会に憧れて地元を離れたけど、仕事中心の暮らしに疲れて、やっぱりこっちに帰って来たくなっちゃったの。だから、そろそろ地元に帰って結婚して、子どもをつくって……なんてのもいいと思ってた。だけど、その相手に自然と思い浮かぶのは、ずっと譲二のことだったの。もちろん、誰でもいいってわけじゃないよ。高校の時から、ううん、それよりもずっと前から好きだった人と結婚したいって思うのはおかしいことじゃないでしょ」
「俺の、こと……」
「高校生の時は付き合ってたわけだけど関係が有耶無耶だったし、今の譲二はWRCで活躍する遠い人。そんな素敵な人と、幼馴染だってだけで私がどうこうできるなんて思ってなかった。でも――」
 顔を上げる。さっき譲二が私を見てくれたように、私も熱い視線を彼へと投げ掛ける。
「心の中では、お見合い相手と結婚なんかしないで、私のことも引き留めてほしいって思ってた。北海道に帰ってきて、俺と一緒になってくれ、って言ってくれるのを待ってた」
夢子……」
 私は、覚悟を決めてゆっくりと呼吸をする。それから再び譲二の目を真っ直ぐに見て、微笑んだ。
「だから、本当にうれしい」
 今にも涙がこぼれてきそうだった。潤む視界の中で、譲二の真剣な顔が近づく。そのまま唇にそっと口づけて、その柔らかさには強く心を支えられているような気さえする。さっきは抱き合うことにさえ過剰に反応してしまったのに、このキスはなんてことなく当然のようにして受け入れられた。
 しばらくしてから、我に返ったのか譲二が「わ、悪い! こんなところで……」と慌てて謝る。こういうところが譲二らしいというか、私たちらしいのかもしれない。
「譲二ってば、ムードって言葉知らないの? プロポーズしてくれた時の譲二、すっごくカッコよかったのに、今はこんなに慌てちゃって」
「そ、そんな風に言ったって、夢子がそんなに綺麗なのがいけないんだろ。一番最初に部屋に入ってきた時、一瞬誰かと思ったぐらいで……あはは、まだドキドキしっぱなしだ」
 素直な言葉は、時々心臓に悪い。
「……お世辞言ったって、何も出ないけど」
「いや、本当だよ。俺もいつも着てるような服とは違うから面倒なところもあるけど、きれいな夢子の姿を見ることができたならまあいいよな」
 譲二の口から出てくる、破壊力抜群な「きれいな夢子」の言葉。そう言ってもらえるのは嬉しいけれどとても私の方が持たなそうなので、こういうのは時々にしておこう。私だって、作業着姿の譲二の方が安心するし。
 そうして連想ゲームでお母さんたちのことを思い出していると、譲二は「もう少しだけ、ゆっくりしていこうぜ」と言った。さっそく報告しに帰ろうとしていた私の心の中を読み取った言葉みたいで、何だかテレパシーを使えた気分になる。
「でも、本当に私でいいの? ……って、こんなこと聞くのもなんか変かな」
夢子がいいんだ。俺は、夢子としか結婚したくない」
 そんな言葉を好きな人から言ってもらって、平常心でいられる人がどこにいるだろうか。もれなく私は平常心でいられない側の人物で、譲二の口から出る言葉に心臓をバクバクとさせっぱなしだ。
「……俺の話、聞いてくれるか?」
 譲二の真剣な声音に、私はゆっくりと頷いた。
「確かに、レース関係で女の人を紹介されることもないけど、何て言うかな。そういう時、ふと夢子のことを思い出して、今何してるかなって考えちまうんだ。それで、この人は農場の仕事を一緒にしてくれるのか、ぼーっと空を見ているだけでも平気か、なんて思って……はは、重症だな、俺」
 一緒に農場で家の手伝いをして、「顔に泥がついてるぞ」と笑いながら教えれば少し照れたようにタオルで拭う私の姿が、ふと思い浮かぶ。そうすればすぐに北海道が恋しくなって、早く家に帰りたいと思うようになる。昔は、私とは毎日のように顔を合わせていたけれど、今は帰省したとしても必ず私の顔を見られるわけではない。特に用事が無くても顔を突き合わせていた頃のように、今はふと偶然会うといったこともできない……
 こーんなことをつらつらと話されては、私は心までガッシリと掴まれて、改めて幼馴染が譲二で良かった、好きな人がこの人でよかったとしみじみと感じるしかない。
「サイバーの方でも、ラリーの方でも、色々と大変なことがあって、色々な人と会って、色々なところに行ったけど――」
 譲二は高い空を見て、それから私の目を見つめた――さっきまであんなに笑っていたのに、どうしてそんなせつない目をするの?

「だけど、そのぶん夢子が恋しくなって、会いたくなった」

 その瞬間、まるで計算されていたかのように風が吹いて、私たちの髪を揺らした。
 譲二の前髪が揺れて目にかかったけれど、その奥にある意志の強い瞳は微塵もぶれることがなくて、私は息が止まってしまいそうだった。それから、そんな真剣な表情が嘘みたいに崩れて、柔らかな表情になる。
「それで、おととい、夢子と話した時に確信したんだ……こんなに一緒にいて居心地が良くて、あの頃と変わらない会話をすることができる夢子と結婚したいって。だから、これから一緒になれるんだと思うと……俺は幸せ者だな」
 ……譲二がこんなにも私のことを想っていてくれたなんて、嬉しくて、恥ずかしくて、どうしたらいいのか分からなくてムズムズとする。
夢子……?」
「……どうしよう、すっごく嬉しいんだけど、なんだか恥ずかしくて……」
 照れながら譲二の方を見たら、黙って私の方を見ているのでびっくりしてしまう。どことなく怒っているのかと思って、慌ててフォローする。
「あ、別に譲二にそんな風に言われたのが嫌ってワケじゃなくて――」
「もう一回、キスしてもいいか?」
「うん……え、キス !? 」
 気付けば、譲二の顔が近づいていて、ドキリとしてしまう。
 だってここは外だし、人が来るかもしれないし、さっきはほぼ成り行きみたいなものだったし……と、照れながら言うと、譲二は「夢子があんまりかわいいからさ」とこれまたサラッと言ってのける。
「でも、やっぱりここじゃ恥ずかしいから……」
「それじゃ、手、握ってもいいか?」
「うん……」
 譲二の大きな手に包まれて、変な感じがする。
「……その、実はさ、高校の時、俺たち一応付き合ってただろ? 夢子とは幼馴染だけど一人の女の人として好きだったし、夢子が『うん』って言ってくれたのがすごく嬉しかったんだ。それで……てっきり、そのまま結婚するもんだと思ってたんだよ、実は」
 そう言いながら、恥ずかしそうに頭を掻く譲二。私はその言葉が自分の記憶と異なっていることに気付く。
「うそ……私は、てっきり譲二はなんとなく『付き合おう』って言ったんだと思ってた……。今だから言うし、覚えてないと思うけど、譲二のお弁当をおばさんに頼まれて届けに行った後、一緒に帰ろうって言いそびれたことを忘れて戻ろうとしたことがあったの。でも、その時クラスメイトとの会話で譲二が私のことを『ただの幼馴染だよ』って言うのが聞こえて……」
「それは、夢子があの時微妙な反応をしたからだろ?」
「あの時ってどの時のこと」
「……俺が『付き合おう』って言った時のことだよ。覚えてるか分からないけどさ、あの時の夢子、うつむいて元気なさそうに『うん』って返事したんだぜ。だから、てっきり嫌だけど嫌だと言えないのかと思って、他のやつらには付き合ってるってバレないように気を遣ったつもりだったんだけどな……」
「嫌なわけないじゃん! ずっと譲二のことが好きで、付き合おうって言ってくれた時はすっごく嬉しかったのに……!」
「そ、そうだったのか……?」
 目を見開いて、徐々に顔を赤らめていく譲二。自分の気持ちを素直に言ってしまったことが恥ずかしくなって、私もさっきまでの勢いが徐々にしぼんでいく。
「あの時は、嬉しすぎてどんな顔すればいいのか分からなかったから、うつむいて誤魔化してたの……ごめん」
 まさかあの時の些細な出来事がこんなに大きな誤解を招いただなんて知らなかった私は、何年か越しにやっと謝ることができた。
 すると、譲二は「はぁー」と大きく息を吐く。ため息ではなくて、張りつめていた緊張の糸をほどいた感じで。
「俺たち、ずっとすれ違ってただけなのか?」
「みたい、だね……」
「こんなことなら、早く正直な気持ちを伝えてればよかったな」
 困ったように「はは」と笑う譲二の笑顔が胸を締め付ける。だけれど、これは切ない気持ちなんかじゃない。
「そうかな、私はこれもいいと思うよ。あんなに真剣な表情をする譲二のプロポーズを受けることができたから」
 それにエスコートもしてもらえたし、と付け加えれば、「それは……!」と譲二が慌てて言葉を挟んだ。
「食事の前、おふくろに『あんたが夢子ちゃんのことが好きなのは知ってるんだからね、頑張って決めてきなさいよ』って言われてさ……おふくろたちには、お見通しだったみたいだな」
「だからか……あの時の譲二、何だか変だと思ってたから」
「嫌、だったか……?」
「ううん、むしろ逆。でも、柄にもないことするから、とってもドキドキした」
「なんだ、夢子って案外策士なのか……?」
「さあ、どうだろうね」
 こんなやり取りをすると、本当に学生の頃に戻れた気がした。けれどもう、昔に戻れることを喜ぶ必要はない。これから、ふたりで新しい関係を築いていくことができるのだから。
 私の気持ちを読み取ったみたいに、譲二は握っていた手にぎゅっと力を込めた。突然のことに驚いた私が譲二の顔を見ようとすれば、彼は立ち上がる。

「そろそろ家に帰るか」

 何てことの無い、そんな言葉が私は大好き。そして、変わらない笑顔を見せてくれる譲二が。

「……うん!」


***


「――ふたりとも、お互いのこと気にしてるくせに全然くっつかないんだから、やきもきしてこっちがお膳立てしたのよ」

 ひとまずお見合いは無事成功に終わったことを、私の母に報告しに来た私と譲二だけれど……それなりに重要事項だというのに、この母親は緊張感もなく話をふんふんと聞いたかと思えば、テレビを見ながらせんべいをバリバリと食べる口から衝撃の事実を述べていった。

 もともと、おばさんと私の母は、譲二と私がお互いどことなく好意を抱いていることに気付いていたらしい。けれど、高校の短い間で恋人関係は終わってしまい、ついには進路の違いでそれぞれ離れてしまった。母親たちはそれぞれの進路で素敵な人と出会ってくれれば別に何も文句は無く、我が子の意志を尊重しようということで待っていたようだけど、この歳までそういった方面で何も音沙汰が無いとなると……私たちが互いに幼馴染のことで引っ掛かっているのだということに気付くのは、母親にとってそう難しいことではなかったらしい。
 どうにかして、私たちの間を取り持つような出来事は無いか……そう、おせっかい母親同士が悩んでいるところで、私の母は思わぬもらいものをした。
「ホテルのコース料理は、もちろん、商店街の福引で当たったのを利用したの。お見合いであんなにお高いホテルを使うほど、うちにはお金は無いからね」
 商店街の抽選会コーナーでハンドベルの音を存分に浴びたお母さんは、急いで大友家へと向かっておばさんに報告しようとした。というのも、お母さんがくじ引きを回せたのは、おばさんに頼まれていたものを代わりに買っていたからなんだとか。ふたりとも、互いの買い物をお願いするほど仲が親しかったのだということに、今改めて少し驚いている。それでも、決してどちらがこの1等賞を手にするかで言い争いをするためではなくて、ひらめいた妙案を伝えるために急いでいたらしい。
 思い立ったが吉日。すでに組み立てられていた“ホテルでお見合い作戦”を急いで話すと、そこから細部の計画は簡単に作り上げられた。もし本当にふたりが互いのことを何とも思っていないなら、それはそれで手違いだったと適当に誤魔化しておけるし、幼馴染であるのだから嫌なこともないだろう。タダで美味しい料理を楽しめるのだし……ということだったとさ(正直なところ、母親同士でこの1等賞を楽しみたいと思っていたけれど、子どもたちのせっかくの機会を設けることができるということで、夫に内緒の豪華なランチタイムの夢は崩れたとかなんとか)。
 母さんたちでコース料理を楽しむことだってできたんだからね、とお小言も頂いたところで、このお見合い計画の全貌を知ることができたのだった。
「そ、そうだったの……」
 すでに自分たちの心が親にはバレていたという恥ずかしさよりも、あんなに素敵だった時間のあまりにも現実的な裏側を知ってしまった衝撃と言うか呆れというか……とにかく、さすが母親だと妙に納得するしかなかった。
 せんべいの入っていた袋を輪ゴムで止めると、お母さんは体を起こしてわざとらしく肩を叩いた。
「あー、それにしても忙しい。着物をクリーニングに出しておかなきゃならないし」
「あの、お母さん。いつ結婚するかどうかは、まだ……」
「あら、何言ってるの。お見合いなんだから、そりゃあ結婚前提に決まってるでしょ。まーた、うだうだやって結婚を伸ばされた困るからね、今年中にはしてもらうつもりだよ」
「今年中 !? 」
 いつまでもどこまでも主導権を握られているようで、何だかため息をつきたくなった。いつまでも子ども扱いというか……まあ、確かに期限でも設けないと、再び空白の期間が続きそうなのも確かだけれど……
 複雑な気持ちでいると、私の肩に譲二の手が。そのまま譲二の顔を見れば、どこか同情するような微笑みを浮かべていた。きっと、同じことを考えているんだろう。
 お母さんが奥の部屋に向かおうとすると、ドアベルが鳴る。インターホンから、「夢野さ~ん」と聞き慣れた声が。お母さんが「どうぞ~」と少し余所行きの声でそう答えれば、ドアが開いて足音が近づいてくる。
「やっぱり、譲二もここにいた!」
 ……彼の母親のお出ましである。おばさんの機嫌が良さそうなのはいつものことだったけれど、ここのところ(譲二と私が結婚すると決まってから)はすこぶる良い。まるで花を周囲に撒き散らさんばかりに。
 おばさんは持って来ていた手提げ袋をごそごそとすると、毛糸玉と、その糸でつながる編みかけの何かを取り出した。
「ほら、見てこれ! 待ちきれなくって、つい赤ちゃんの服を編んじゃったの」
「まあ素敵! 大友さんってば手先が器用で羨ましいわ~」
「やだあ~、そんなに褒められても、何も出ないわよ。まあ、靴下とか帽子とかは編んじゃうかもしれないけどっ!」
 途端に、キャッキャとして話を続ける母親ふたり。結婚することが決まったおめでたい当人同士(自分で言うのも何だけど)をほったらかして、すっかりふたりの話の世界に入ってしまっている。
 こうなっては、私たちが入り込む隙はないことを十分に知っているので、ひとまず散歩にでも出かけることにした。聞こえてはいないだろうけど、一応「外に散歩に言ってくるよ」とだけ伝えて玄関へ向かう。

 靴を履いていると、「ちょっとダイエットしなきゃ」「私もだわ」なんて会話がリビングから聞こえてきて、私と譲二はいつの日かと同じように顔を見合わせる。
「なんでかな、お母さんたちの方が乗り気なのは」
「さあな」譲二は肩をすくめて見せる。「でもまあ、結婚するのは事実だし、好きにさせとけばいいんじゃないか?」
「そうかなぁ」
 譲二の口から出てきた「結婚するのは事実だし」という言葉にドキリとしたのは私だけの内緒。事実には変わりないけれど、飄々とした態度の譲二を今だけはズルいと思ってしまう。
 ……けれど、次の発言を聞いて、私はもっとドキドキとすることになる。

「ま……遠回しだけど、早く孫の顔を見せろって言われたことだし、俺たちも頑張るか」

 意味ありげな笑みを浮かべる譲二。その示すところに驚いていれば、譲二は頬にキスをした。
 無邪気な笑顔で「あの時の分」なんて言う譲二に、私は「ばか」と呟くしかなかった。


END