早くなる鼓動。歪み出す視界。小刻みに震える指先。額から頬へと伝っていく汗――この頃、突然感じられるようになった身に覚えのない苦痛をその身に受けながら、フィルは公園の歩道で思わずしゃがみ込んでしまった。初めてこの症状を自覚した時はわずかな不快感として彼の記憶に残っていたが、今回のものは一番にひどいものだった。
対処法を知らない彼は「う、あ……」と小さな呻き声をあげ、自分の腕で自らを抱きしめるしかない。その症状が治まるのをただひたすら待つのだが、震えは収まるどころかさらにひどくなっていく気さえしていた。
誰か、誰か助けて――フィルの心の叫びが届いたかのように、彼に暗い影が落ちた。
「あの、大丈夫ですか?」
フィルがゆっくりと目を開けて声の主の顔を見ようとすれば、その人物――
夢子は、しゃがみ込んで彼の顔を覗き見た。そうして目を見張る。
「すごい汗!」
夢子は、取り出した清潔なハンカチでフィルの額の汗を拭う。その手つきはさも当然といった具合で、気が気でないフィルは彼女の手を拒むことは無かった。
「救急車を呼びましょうか?」
「だ、だめなんだ……救急車は……」
「でも……」
顔を歪めながらもそう言うフィルを見て、
夢子は言葉に詰まる。目の前の人物を助けようと思って手を差し伸べたのに、彼はそれを振り払おうとしているのだ。
困惑する
夢子に対し、フィルにはこの症状の原因に対する心当たりがあった。それは、名雲京志郎が用意した新型のサイバーフォーミュラマシンである<アルザード>に乗る前、いつも飲むように促されるドリンク<αニューロ>である。
筋肉の反応速度を増すことでアルザードのバイオコンピュータからの指示を受け入れやすくし、かつ凄まじいスピードに対する恐怖心を失くしてしまうことができる神経系の新薬……フィルは、その副作用について知らなかったが、初めから無いものとして教えられていれば訊くこともできないのは仕方のないことだった。人間とサイバーシステムの融合を促すものだ、安全性は確認されているものだ、と証拠の提示もなく言われ、ストローの刺さった小瓶をクルーから受け取ったフィルには、自分を囲う人々の視線に圧力をかけられるようにしてその液体を喉に通すしかなかった。
αニューロこそが近頃の症状の原因だという疑惑は、確かにうっすらとしたものだったが、決してそれが本当だとは信じたくない理由がフィルにはあった。彼は、勝利の栄光を手に入れるため、それらの手ほどきをしてくれる名雲の全てを信じ、素直に従わなければならないと考えていたのだ。例えどんな形であろうとも、トップでチェッカーを受けることさえできれば、全てを捨てても構わなかった。
栄誉を手にしなければ。フラッシュのきつい表彰台の頂上にのぼり、太陽の光を跳ね返す優勝トロフィーを天高く掲げなければ。世界中の人々に、自分こそがサイバーフォーミュラのチャンピオンなのだということを知らしめなければ……レースへの諦めきれない情熱は捻じれ、フィルの中に執着として残った。
「おねがいだ……」
フィルの口からこぼれ出たその言葉は、
夢子に何か重大な事柄が絡んでいるのだと察しをつけさせるのに十分だった。だが、だからといって見放してしまうわけにもいかない。彼女はあたりをきょろきょろと見渡すと、「とりあえずベンチに座りましょう」と声を掛けた。
フィルは意識が朦朧としていたが、どうにか彼女の指示に従おうとする。うまく力の入らない足に頑張って力を込め、どうにか立ち上がろうとした。しかし、バランスを崩してしまい、思わず
夢子へともたれかかってしまう。
「あっ」
――
夢子に抱きとめられた時、フィルは不思議と安心した。いつも縛られているアルザードのコックピットの中ではなく、柔らかな温もりが感じられるような気がする彼女の腕の中。それは、あまり記憶に無いはずの“母親の感覚”をフィルに思い出させていた。
「大丈夫、がんばって」
そうして、そっと背中に添えられた手に勇気づけられたように、フィルはぼんやりとした意識のまま立ち上がり、
夢子に支えられながらふらふらとする足取りでベンチまで辿り着く。すると安心してしまったのか、そこで彼は意識を手放してしまった。
・
・
・
意識を取り戻したフィルの目に一番に飛び込んできたのは、公園の木々と芝生だった。自分が公園を歩き、突然痛みに襲われたことも忘れていた彼は、いまいち頭が働かず、まだ夢の中にいるのだと思った。
「あ、目、覚めた?」
すぐ近くから聞こえてくる声の出どころを探ろうとすれば、すぐ右上に
夢子の顔があった。フィルは、彼女の左肩にもたれかかるようにして意識を失っていたのだ。
飲み物を飲んでいた
夢子は、缶を太ももで挟み、フィルが体を起こそうとしているのを手伝った。改めて自分が迷惑をかけてしまったことに気付いた彼は、力のない笑顔を彼女に向ける。
「……ありがとう」
「いいの、気にしないで。それより、大丈夫?」
「うん。ちょっと休憩したら、良くなったみたいだ」
目の前に広がる緑が、どこか清々しい気分をもたらしてくれている。フィルの微笑みを見て、
夢子は「ほんと、良かった」と安堵の顔を見せた。
「……あ、飲み物いる? 好きかわからないけど」
そう言いながら、彼女が缶ジュースを差し出してくる。流石に世話をかけすぎていると感じたフィルだったが、
夢子の優しげな顔を見れば、「ありがとう」と遠慮することなく受け取った。
「でも、どうしたの? 何か病気とか……」
フィルがひと口飲んで落ち着いたころを見計らって、
夢子は話しかけた。彼の体調や様子を見て遠慮してはいたのだが、あまりにも知りたいことが多すぎて、質問することを耐え切れなかったのだ。
一方、フィルは、そう問われて「どうしよう」と思う部分があった。いくら助けてもらった人だからと言っても、正直に話してしまうのはさすがに良くないだろうし、そもそも名雲ともアルザードに関することは秘密にするといった約束をしている。
それでも、サイバーフォーミュラのレーサーをしているというのは伝えても大丈夫だろう。どうせ、一か月後のレースでは世界中に知られてしまうことだ……というもっともらしい言い訳を並べつつも、現代の花形職業でもあるサイバーフォーミュラレーサーをしているということ、そして、世界大会に出ることができるのだということを、
夢子に自慢したい気持ちがどこかにあった。
今にも倒れそうなところを親身になって介抱してくれた彼女に、フィルは少なからず好意を抱いていたのだ。
「……一応、サイバーフォーミュラのレーサーをしてて――」
「そうなの!?」
すぐに目を丸くして想像以上に驚く
夢子を見て、少々申し訳なくなったフィルは「まだまだヒヨッコだけど」と付け加えた。アルザードのことを考えればとても“ヒヨッコ”とは形容できないような実力を発揮することになるのだが、決して、その怪物マシンを自分の力でもって操っているわけではない。どこまでもつきまとう罪悪感が、彼を完全な陶酔状態には陥らせてくれなかった。
しかし、そんなフィルの葛藤を知る由もない
夢子は、嬉しそうにフィルの顔を見る。
「私も、第15回のサイバーフォーミュラのワールドグランプリを見に行くつもりでさ。今度、第1戦がアメリカであるでしょ」
「じゃあ、僕が走ってるところを見てもらえるんだね」
「えー、楽しみだな……そうだ! サイン、今のうちにもらっておこうかな」
「僕のでよかったらいくらでも」
「いいの!? ……あ、でも今何も持ってないや」
紙はおろかペンまでも持っていないことに気付いた
夢子は分かりやすくガッカリとして見せる。ころころと表情が変わるのを面白いと感じたフィルが「それじゃあ、今度あげるよ」と言ってしまえば、彼女は「ほんと!?」と再び目を輝かせる。その様子がツボにはまったフィルは、つられるようにして笑った。
「結構、笑うんだ」
唐突な
夢子の言葉に、フィルは彼女の顔を見る。その瞳に促された
夢子は、「だって」と言葉を続けた。
「さっきまであんなにつらそうな顔して、苦しそうだったから。元気になってくれたならいいけどさ」
フィル自身、自分は日頃から大声でよく笑うような性格ではないと思っていたが、ついには人に心配されるほど“喜び”や“楽しい”の感情が欠如していたのだろうかと怖くなった。
夢子と出会ったのがたまたまあの症状に苦しんでいた時だったので、そういった印象を彼女に与えていたからこそ感じたギャップなのかもしれないと考えることもできる。だが、彼自身、自分の感情がどうにも乏しくなってきているような気がしていた。
<NASCAR>から名雲に引き抜かれた後、彼は確かにフィルに栄光を約束し、必勝の誓いと引き換えに華やかな生活を与えてくれた。今までに泊ったこともないような豪華なホテルのふかふかのベッドで横になることもできたし、食べたこともないような贅沢なコース料理を堪能することだってできた。
路地裏にいるような目つきの鋭い猫ではなく、血統書がついているような珍しい猫を膝の上で撫でることもできる。初めの頃はこちらを警戒しているようだったが、この頃段々となついてきているようで、まるで自分の腕の中が名雲の猫の定位置のようになっているのが嬉しかった。
しかし、その一方、アルザードの秘密を漏らさないためか、はたまたフィルを実験台として見ているからか、彼が同年代の友人と気軽に話したり遊んだりできるような環境が設けられることはなかった。寝て、起きて、食事をして、テスト走行、また食事をして、アルザードの速度についていけるようにトレーニング、また食事をして、シャワーを浴びて、寝る。そして、また起きて……彼が息抜きをできるのは名雲の猫を撫でている時くらいで、それ以外はどこにも娯楽は無いようだった。
走るのは楽しい。自分が今までに感じたことのないようなスピードを出せるというのは、たとえ機械の力がほとんどだとしても、フィルからすれば嬉しいことだった。
どんどんとアルザードに適応していきレコードタイムを出すと、名雲は褒めてくれる。さすが私の見込んだ逸材だ、と。その言葉を聞いて、フィルは自分の才能が認められているのだと思い込んでしまい、さらにアルザードへとのめり込んでいった。アルザードとαニューロ無しでは自分の存在価値は無に等しいのだと感じてしまうほどに。
だが、やはり名雲は、フィルを認めるなどして彼を自分と同格の人間として捉えていたわけでなく、あくまでも自分の目標を達成するための従順な手駒として彼をコントロールしているだけに過ぎなかった。考えがちなフィルは、そんな名雲の心のうちに全く気付かなかったわけではなかったが、あえて考えないようにしていた。できれば、自分の思い違いなのだと信じていたかった。
それでも、今日、ついに名雲はフィルに対する軽蔑の目を隠さなくなった。彼の仕事の中の鬱憤を晴らすようにして、八つ当たりのようにしてフィルに告げたのだ。
『……うぬぼれるなよ。この記録は、決しておまえの実力ではない。アルザードとαニューロの力がもたらした結果だ。
フィル、君はただアルザードに乗り、バイオコンピュータの言いなりになって、トップでチェッカーを受ければいいんだよ。……例え、それさえもできないようなら、私もさすがに君には付き合いきれないがね』
心が読めない名雲の微笑みを見て、憐みの眼差しを見て、フィルの心は叫んだ――僕を見捨てないで!
コンテナから出ていく名雲の背中を見て、フィルは目頭が熱くなるのを感じていた。ここに来てから忘れていた寂しさや辛さ、虚しさなどが一気に押し寄せてきたようだった。
そんなことは、分かっている。こんなにも早く走れるのは、自分の力ではなくバイオコンピュータの力なのだということは。それでも知らないふりをして、ほめそやしてくれるクルーの人々の言葉を鵜呑みにして、必死にアルザードと名雲にしがみついてきた。見捨てられないために、栄光を手に入れるために。
涙を流すフィルを見て、名雲の猫はフィルの膝の上に飛び乗って彼の涙を舐め取ろうとしたが、彼は今そんな気分ではなかった。自分のことしか考えられず、猫に与えるたった少しだけの愛情さえも、誰にも渡したくなかった。自分だって猫になって、無条件に誰かからの愛情を受け取りたいと思った。
幸い、今日の午後は休みだったので、気分転換に散歩にでも行くことにした。コックピットから出てもまだ締め付けられているような感覚からは、レーシングスーツを脱ぐことでやっと解放される。
そうして、彼は公園にてひどい症状に襲われることになったのだが――フィルが走馬灯のようにして今までのことを回想していると、
夢子が「何か、悩み事でもあるの?」と訊いた。
「いや、ちょっとぼーっとしてただけだよ」
「そう? まあ、さっきまであんなに苦しそうにしてたんだもんね。しばらく、ここで休んでいた方がいいよ」
「そうだね、もう少し休んでいくよ」
――できることならば、今、自分が置かれている状況を全て正直に話してしまいたい。とても、一人では耐えられそうにないから。
そして、その温かな胸で抱きしめ、大丈夫だとささやいてほしい。ふらついた体を
夢子が支えてくれた時の彼女の優しい感触こそ、フィルにとって必要なものだった。
もう少し、隣にいてもらえないかな――この関係には出しゃばり過ぎているように思えるその言葉を口にできずにいると、
夢子の視線がこちらに向けられていることにフィルは気がついた。横を向けば不意に目が合って、鼓動を早めてしまう。一瞬、彼は再びあの症状がぶり返してきたのかと思った。
「きれいな色」
脈絡のない言葉に、フィルは不思議そうな目で
夢子の顔を見る。
「あなたの目、きれいな紫色をしてる」
そう言う彼女の瞳こそ吸い込まれていきそうなほど魅力的で、もっと自分のことを知りたがっている。そして、彼女も自分との時間を求めている……そう感じたフィルは、「もう少し、隣にいてくれないかな」とはにかんで、
夢子を引き留めた。
***
日は落ちかけていた。
夢子は「また倒れたら不安だから」と、フィルが泊っているホテルの近くまで歩いて送ることにした。
夢子が帰るのが大変になるからとフィルは一度断ったが、「そこなら私の家の最寄り駅に近いから」と彼女が言ったので、言葉に甘えることにした。ふたりとも、もう少し、あともう少しだけ一緒にいたかったのだ。
ふたりは、海沿いの道を並んで歩いた。恋人と形容するにはいささかムードが足りなかったが、それなりに穏やかで親し気な雰囲気がふたりを包んでいた。
初対面の人にこんなにも心を開いたのは、フィルにとって初めてだった。そして、
夢子にとっても、こんなにも放っておけなくて惹かれる人物は彼が初めてだった。
よろけた彼を抱き留めた時は、自分の腕にすっぽりと収まるほど小さく思えたのだが、いざ並んで歩くとなると、彼の背の方が高い。繊細な睫毛に縁取られた紫の瞳が優し気な目をしていて、海のオレンジとの対比に
夢子はどぎまぎとした。
互いの身の上のことなどは一通り話してしまったので、あとは目に入ったことや思いついたことをふと口にすることが主な会話の内容だった。それでも、互いに相手のことを意識しているからか、うかつに恋人の存在を訊けずにいる。肩同士が触れ合うことのないふたりの間のわずかな距離を、もどかしく思っていた。
そうして楽しい時間をふたりで過ごしていると、一台の車がゆっくりと近づいてくる。車通りが多いところではなかったため何事かと身構える
夢子に対し、フィルは車のボディを視界に入れると立ち止まる。
「おや、フィル……ガールフレンドかい?」
下げられたサイドガラスから、サングラスをかけた長髪の男が顔を覗かせた。その途端、黙りこくってしまったフィルを見て
夢子は、“きっと彼こそがフィルを傷つけている人物なのだろう”ということを悟った。そして、慌てて言葉を返す。
「まさか、私は体調がすぐれない彼を助けたぐらいの仲で」
「それはそれは……その節は世話になったね、うちのフィルが」
そう言いながら、男はサイドドアを開け、車から降りる。フィルよりも背の高いスーツ姿のその男に、
夢子は何かしらの威圧を感じていた。サングラスを外したその目は涼しげで、フィルと
夢子の関係を探ろうとしているように思えた。
男はちらりとフィルを見て、それから
夢子を見ると口の端を上げる。
「ぜひ、お礼がしたい。名前を伺っても?」
「
夢野……
夢子です」
「どうも、
夢子さん。私は名雲京志郎です。フィルとは……ある種のビジネスパートナーといったところかな」
右手を差し出され、
夢子は応える。
「……フィルから、少し、話は聞きました。サイバーフォーミュラのオーナーをされるとか」
「なんと、ご存知だったとは光栄だ。フィル、君もお喋りが好きだな」
名雲がフィルの顔を見れば、彼の顔は一瞬引きつったが、
夢子の視線に気付けばフィルはすぐに柔らかく微笑む。それでも、それがぎこちないものなのだということは彼女にはすぐに分かった。
「そうだ、
夢子さん。よろしければこれからディナーでも」
そう言った名雲だったが、
夢子の隠しきれない警戒的な態度に気付いたからか、「ああ、もちろんフィルもですよ」と微笑みながら付け足した。
「決してやましいことなど何もないということを示しておかなければね」
ジョークでも口にしたように笑う名雲に同調するように、
夢子も少し笑ってみせた。
「そんなに気を使わないでください。名雲さんが紳士だということは一目見たときから分かりましたから」
「はは、
夢子さんはいい目をお持ちのようですね」
――その時、電話の着信音が響く。
「おや、電話が……少々失礼します」
断りを入れると、名雲は車の運転席に戻る。犬も食わないお世辞の応酬をひとまず終わらせることができたことに、
夢子はホッとした。フィルほどではなくとも、確かにこの人物と話をするのは非常に気力を使うのだということを身をもって感じていたのだ。
「あの人が、フィルの――」
名雲が電話に集中していることを確認した
夢子が囁きながら横を向けば、フィルは腕を掴んで苦痛に耐えていた。
「だ、大丈夫……!? フィル!」
「
夢子、ディナーは断ってくれ」
「でも、フィルが……」
「いいから……君までもが巻き込まれるのは嫌なんだ」
額にうっすらと汗をかきながら、フィルは薄く笑った。そんな諦めを浮かべたような笑みを向けられると、
夢子は無理に自分の意志を貫くのは無意味なのだということを知らされてしまう。
確かに、自分も名雲のことは出会ってすぐに“苦手な人物”とラベリングしたのだが、これ以上フィルが苦しんでいるところをほったらかしにしておくのは我慢ならなかった。問題自体に介入できることでなくても、どうにかフィルの力になりたい――自分がいることで名雲の態度が余所行きのものになるなら、多少は何か時間稼ぎができるかもしれない。
しかし、フィルから「嫌だ」と言われてしまえば、彼の要求を飲むことこそが最善の選択になる。そして事実、名雲は
夢子がどこまで自分たちの秘密に近づいているのかを探り、場合によっては牽制するために彼女をディナーに誘おうとしていた。
「……わかった」
しぶしぶそう答えた
夢子だったが、決して、名雲に恐れをなしてこの判断を下したのではないということ――フィルを見放したのではないということに気付いてもらいたいと強く思った。
だが、そんな思いを伝える暇もなく、電話を終えた名雲が再び車から降りてくる。
「失礼。……それで、今夜のディナーはいかがでしょうか?」
「……誘っていただけるのは嬉しいのですが、あいにく予定が入っていまして」
「そうでしたか。残念ですが、こちらも急に誘いましたからね」
夢子が暗い顔をしている理由を察してか、名雲は言葉を続ける。「そう、申し訳なく思わないでください。また、機会があればぜひ」
「はい、そのときは」
“そのとき”など決して来ないことを知っている名雲と
夢子は、互いにそんなことを感じさせないような笑顔で向き合った。
「それでは、失礼します」
「ああ、送りますよ。女性を一人で返すというのは申し訳ない」
「いえ、大丈夫です。私の希望でここまで来たので」
「そうだったのかい? フィル」
「……あ、うん。彼女がホテルまで送ってくれるって……」
「なんだ、それならそうと言ってくれれば。せっかくのいいところを、邪魔してしまったかな」
含みを持たせた名雲の言葉と表情に、
夢子は「そんなことはありませんよ」と否定する。
「フィルの体調も心配ですし、名雲さんが車でホテルまで送ってくださるのであればその方がいいと思います」
この男は、自分とフィルの関係性に気づき始めているのではないか――淡い疑惑を抱いた
夢子は、フィルに「会場で会えるといいね」とだけ伝えた。
「それでは」
お辞儀をして、その場から立ち去る。フィルも、きっと望んでいることなのだと信じて。
しかし、そうだとしても、ここからは立ち入ることができないのだと思うと、
夢子は不思議と自分の無力さを感じた。ここまでフィルに入れ込んでしまうのが自分でも不思議で、それでも放っておけないのだ。自分がいなくなった後、ふたりがどのような会話をして、どのような態度を名雲が取るのか
夢子は気になったが、振り向くことはできなかった。
小さくなっていく
夢子の姿を見ながら、名雲は呟く。
「フィル」
暗い声に、フィルはぞくりとする。先程までの友好的で紳士的な態度からは想像もできないような、低い声。
「彼女とは二度と会わない方がいい……あの女は妙に鋭い、危険だ」
勝利のために何もかもを名雲に捧げ、いよいよ栄光を手にする気持ちでいたフィルではあったが、こんなにも名雲に奪われたくないと思ったのは
夢子の存在が初めてだった。
彼女のやさしさに触れたあとには、名雲の冷めた態度が針のように刺さってくる。その低い声が、心の奥底をぞわぞわと気持ち悪く撫でていく。
気を紛らわせるためにも、早く部屋に戻って名雲の猫をこの腕で抱きたい――そう思いながら、フィルは名雲の車に乗り込んだ。
END