「結婚しよう」
そう言ったのは、
夢子だった。
「え」――何でもない休日にしてはあまりにも脈絡のない言葉で、それも彼女に言われてしまったからか、俺は目を見開いて
夢子の顔を見ていることしかできない。
ひとまず、手にしていたマグカップをローテーブルの上に置く。途端に生まれてきた、照れなのか何なのか分からない感情を持て余し、俺は苦笑いしながら
夢子と向き合った。
「……俺が先に言うつもりだったんだけどな」
頬を掻く俺を見て、すぐに彼女は「うそ」と言葉を返す。
「全然、そんな風には見えなかったけど」
「そりゃあ、
夢子の気持ちも大切にしないとダメだからだろ?」
そう、俺だって
夢子とは結婚したいと思っていたが、タイミングってもんがある。
今は、サイバーフォーミュラでの大事故から回復してラリーの方で頑張っているとはいっても、まだまだ満足のいく結果を出すことはできていない。できれば、彼女には公私共々支えてもらいたいと思っているから、自分の稼ぎだけでそれなりの生活を送れるようにはしておきたいし……と、つまり、不安でいまいち予測がつかないような今ではなくて、もう少し安定して格好がつくとき――例えば、WRCで良い結果を残した時だとか――に正式にプロポーズするつもりだった。
けれど、彼女はそうでもなかったらしい。
「だって、それなりに長く付き合ってるのに譲二ってば何とも言わなかったでしょ。もしかして、私とは結婚するつもりじゃないのかも、って不安に思ったから、一か八かで言ってみたの」
「……ってことは、本気じゃないのか?」
「本気だよ、もちろん!」
食い気味に即答する
夢子を見て、俺は確信を抱く。俺は、彼女のことを想い、彼女の気持ちを尊重しているつもりでいたけれど、それは本当に“している
つもり”だったのかもしれない。
「入院したとき、『俺を一生支えてくれ』って言ってくれるんじゃないかって期待してたの、実は。だけど、譲二はそんな素振り見せなかったし、今までと同じように復帰していったし……」
「それは――」
それは、プロポーズの言葉はもう少し後に取っておきたいという気持ちが存在していたのもあるが、一番は、自分が事故を起こして色々と不安になったから都合よく
夢子を求めていると思われては困ると考えたからだ。
決して誰でもいいわけではなくて、
夢子じゃないとダメなんだという気持ち。事故が無ければもっと自然に、そしてもっと早く自分の気持ちを正直に伝えることができていたのだろうが、どのみち言葉足らずだっただろう。そして事実、彼女を不安にさせていた。
言葉に悩んだ俺は、どんな言葉をかければいいのか悩んでしまう。うつむきがちな俺の腕を、
夢子はすがるように掴んだ。
「何て言ったらいいのか分からないんだけど……私は、譲二と一緒に生きていきたいの。これからも、ずっと」
夢子のこんなにも切なそうな顔は初めて見た。今までに彼女の色んな姿はいくらでも見てきたつもりでいたが、いくつもの感情を潜ませて複雑な色を見せる彼女の瞳は、反則だと思ってしまうほど庇護欲をかき立ててくる。
「ねえ、譲二は……?」
そんな目で問い詰めなくても、初めから気持ちは決まっている。問題は、それをいつ、どんな風に伝えるのかだけで、相手に対する想いがあれば大差無いのだということをたった今知った。
座り慣れた胡坐から正座に変えて、今出来る限りで精一杯体裁を整える。すると、
夢子も真似をして正座になった。お互いやけに真剣な面持ちで向かい合って、今いる場所が我が家のリビングなのだということもすっかり忘れてしまいそうになる。
太ももに手の平を置くと、俺は
夢子に向かって頭を下げた。
「こちらこそ、俺と結婚してください」
数秒後、
夢子の笑い声が聞こえる。妙に思った俺が慌てて頭を上げれば、彼女は両手で口元を抑えて俺を見ていた。
「……笑うなよ」
「ふふ、譲二のそんな言葉づかい珍しいからさ」
「格好ぐらいつけさせてくれ……」
どこまでもペースを乱されっぱなしの俺は、頭を掻いた。さっきはあんな目で迫ってきたくせに、今じゃ冗談だったみたいに笑っている。どぎまぎとして、一生に一度の感覚かもしれない、なんて思った俺の気持ちを返してほしいぐらいだ。
……それでも、楽しそうにしている
夢子の笑顔が、言葉で言い表せないくらい俺を幸せな気持ちにしてくれているのは紛れもない事実だ。俺もつられて、一緒になって笑ってしまう。
とてもプロポーズの言葉が飛び交った後とは思えない、いつもと変わらない光景。だけれど、それがこんなにも嬉しく感じられて、
夢子がきらきらと輝いて見えるのは初めてだ。
「でも、指輪とか何にも用意してないんだよ」
「用意するつもりだったの?」
まるで俺が気の利かないやつだと思われていたみたいで、少しムッとしながら「それは、あった方がいいだろ」と返す。実のところ、俺はそれらについていまいち良さがわからないでいるが、人との話では「彼女へのアクセサリーのプレゼントは必要だ」と聞くし、それなりに色々と調べて、
夢子に似合うものを贈るつもりだった。……まあ、それも必要が無くなったとなるならば、内心ホッとするんだが。
「それはそうだけど、ほら、譲二ってば色気より食い気って感じだし」
さすがに、それは否定するつもりはない。が、「乳製品一年分とかプレゼントしてくれるのかと思った」と
夢子が付け加えた時にはさすがに危機感を持った。さすがに格好がつかない。
「それじゃ、今すぐにでも買いに行くか」
なんて、やけくそ気味でも言ってしまえば
夢子は喜んで付いてくるかと思ったが、彼女は言葉も無く突然俺の体に抱きついた。
「どうしたんだよ、
夢子」
「……今はいいや」
耳元で小さく聞こえた、その声。
夢子の気持ちが自然と分かるようで、俺は彼女の背中にそっと腕を回した。ぎゅっと抱きしめた後、顔にかかった髪を耳に掛けてやり、そのまま頬にキスをする。
こんなにも大切で温かな存在が、俺の腕の中にいること。……それがどんなに素晴らしいことか、今、改めて強く感じさせられている。
唇にして欲しいと強請っているのだろう
夢子の瞳を見て、迷わず応えてやる。その唇の柔らかさも、抱きしめた時の体の小ささも、自分とは違っていて、それでも自分の一部と言う感じがする。にじみ出るような温もりは、俺とは寸分も違わない。
唇が離れると、彼女はまぶたを開けて俺を見る――綺麗な瞳だな、なんてくさいセリフを言ってしまいたくなったが、そんなことは言えないな。きっと、また変に格好つけてる、なんて笑われるだろうから。
うまい言葉が出てこない、役立たずの俺のくちびる。だから、もう一度口づけることで俺の想いを伝えることにしよう。
END