唐突ではあるが、レポーターとして訪れるサーキット場での俺の楽しみのひとつはブイハチと遊ぶことである。
 スゴウチームのマスコット犬であるブイハチ(一応メス)は、とにかくかわいい。やっぱり犬ってのは耳がいいらしく、遠くから歩いてくる俺にすぐに気付いてピコンと耳を立てる。伏せでもしていたら、すぐに起き上がって臨戦態勢になっちまう。ちぎれんばかりに尻尾を振って、まるで笑うみたいに舌を出して待っているのを見ると、ついつい俺もニヤけてしまって……おまけに、牧場から持ってきたハムやソーセージを喜んで食べてくれるのだから、嬉しいことこの上ない。
 けれど、今日ブイハチを可愛がりに来たのは俺だけじゃない。恋人の夢子もいる。
 仕事の関係もあってなかなかサーキット場を訪れることができない夢子は、ここぞとばかりにブイハチを可愛がっている最中だ。
「ブイハチはかわいいねぇ。ふふ、うっとりしちゃった」
 そう言う夢子もうっとりとしている。……おいおい。そんな表情、俺には見せてくれないのに。
「ほら見て、ブイハチの顔」
「はは、とろけてるな」
「とろけてるだってよ、ブイハチ」
 そうしてまた笑う夢子
 そう言えば、笑ってるところを見るの久しぶりだな。最近あまり会ってなかったし。
「ほんとかわいい……」
 ――あ、何かやばいぞ。
 脈絡もなくそんな思いが電気みたいに走って、途端に夢子から目を離せなくなった。ごくりと唾を呑み込む――信じられないし、信じたくもないけれど――どうしてかムラッときてしまった。……俺って、こんなに欲求不満だったか ?!
 理由もわからない自分の感覚が受け入れ難くて、ブイハチのかわいらしさでごまかしてもらうことにした。
 頭を撫でれば、ブイハチはこれまた嬉しそうにする。柔らかな毛の感触とその奥にある温かな体温に、ついさっきの不純な考えも落ち着いてくる。……が、夢子は俺の葛藤もつゆ知らず、無遠慮にジャブを打ってくる。
「やっぱりブイハチってば譲二の方が好きみたい……私より嬉しそうにするんだもん」
 わざとらしく拗ねた顔がかわいい……前言撤回。再び邪な考えが姿を現し、思わず目を離せないでいると、さすがに気付かれてしまった。
「何、そんな怖い顔して」
「えっ、怖い顔 !? 」
 ただ「夢子かわいいな」と思って見つめているだけの顔が……“怖い顔” !?
「ブイハチが怖がってるよ」
「ごめん、そんなつもりなかったんだけど……そっか、怖がらせちゃったか」
 苦笑いでどうにか話題をそらそうとする。
「もしかして……どこか体調でも悪いの?」
 顔を覗き込まれて、今度はその唇にしか目がいかない。今日の俺、やっぱり変だ!
 ひとまず距離を取ることにして立ち上がってはみるが、もちろん不自然なわけで。
「どうしたの?」
 今は、ただ見上げただけの上目遣いさえも刺激になる。……あー、やっぱり無理だ。強引だとは思いつつも、急遽進路変更することに決めた。
 しゃがみ込んで、ブイハチの頭を撫でる。
「ごめんな、ブイハチ。遊びの続きはまた今度だ」
 言葉の意味はわからないだろうけど、察したらしいブイハチは悲しそうに鳴いてみせるので少々心が痛い。許してくれ、ブイハチ。
「どうして、別に急いでないけど」
「それはそうだけど……あ、ほら、荷物が届くとか言ってなかったっけ」
「そんなこと言ったっけ? もしかして譲二の荷物?」
「違うよ夢子の」
 夢子は再び顔を覗き込んできて、不思議そうにしてみせる。
「そんなに焦ってどうしたの? トイレなら行ってきなよ」
「……」
 まさか俺がどんなことを考えているかなんてわかりもしないだろうけど、あまりにも的外れな回答ばかりされるものだからヤキモキする。何だか焦れったくなって、言葉もなく夢子の手を引っ張った。
「ちょっと! 一体どうしたの ?! 」
 夢子は引っ張られるのを止めようと体重を逆方向にかける。そうすれば、俺と夢子で何か遊んでいるとでも思ったブイハチが自分も混ぜてほしいとじゃれついてきて……ああ、俺って……
「……トイレ」
「はあ?」
「ってのは冗談で……」
 夢子の呆れたような目を見て、途端に自分が情けなくなってくる。正直に自分の気持ちを伝えられなくて、みっともなくごまかしている自分が。
「もう少しブイハチと遊びたかったんだろ? いいぜ、戻って」
「何それ、自分が無理に切り上げさせたくせに」
 ぐちゃぐちゃな言動を取り始めた俺に、さすがの夢子も苛立ち出す。
「何か隠しごとでもしてるの」
「まさか、そんなんじゃないよ。でも、大したことじゃないからさ」
「ブイハチだって気になってるよ」
 クゥンと鼻で鳴いて、上目遣いで見てくる。この場で不純なのは俺だけなのだと思うと、さすがに居た堪れなくなった。夢子に手招きをして呼び寄せる。
「なに」
「ブイハチには聞かれたくないから」
 なにそれ、と言いつつも夢子が素直に耳を寄せれば、今まで考えていたことを正直に伝える。そうすれば段々と赤くなる夢子の顔。ここまでのやり取りが無ければ、今すぐキスしたいくらいにかわいいんだけど。
「馬鹿じゃないの、こんな真っ昼間から」
「仕方ないだろ、不可抗力だよ」
「せっかくブイハチと楽しく遊んでたのに、一人だけそんなこと考えてたんだ」夢子は目を細める。「スケベ」
 そんな表情さえ煽られているように思えて、俺はもう末期かもしれない。
「それは……ごめん」
「どうする? ブイハチ」
 夢子はブイハチを見て、喋れもしないのに答えを求めていた。困っていたブイハチだけど、俺と夢子を交互に見ると俺の方へと寄ってきた。
「……ブイハチは許すって言ってるみたい」
「ありがとな、ブイハチ」
 真ん丸な目で見上げてきて、ほんとにいい子だブイハチは。そうだよな、仕方ないことだよな、なんてついつい同意を求めそうになる。ブイハチは犬なのに。
「俺、ちょっと顔洗ってくる」
「ん、わかった。ブイハチも待ってるから、すぐ戻ってきてよ」
「ああ」
 夢子も相当ブイハチに弱いから、今回ばかりは助かった。ブイハチ様々だ。
 今日の分のオヤツはあげてしまったから、明日のオヤツは多めにしよう。ああでも、さすがにあすかちゃんに甘やかしすぎだって怒られるかな……
 そんなことを考えながら洗顔を済ませたけれど、戻ってくればそこには夢子しかいなかった。
「……あれ、ブイハチは?」
「ハヤトくんたちがもう帰るから、一緒に帰っちゃったの」
「そうだったのか……」
 レポーターとしての立場抜きでハヤトと話すつもりだったから、正直がっかりだ。
「譲二がいなかったから、ハヤトくんが『よろしく言っておいてください』って言ってたよ」
「悪いことしたな……」
「ほんと。誰かさんが変なこと考えなければ、顔も洗いに行かなくてよかったんだし?」
「……悪かったよ」
「反省してる?」
「ああ、もちろん」
「それじゃ、夕飯食べに行こうか」
 機嫌を直してくれたのかと安堵したのも束の間、夢子は「回らないお寿司なんて素敵じゃない? もちろん譲二のお・ご・り・で」と満面の笑みで付け足した。
「え……」
「え、じゃないでしょ。下心丸出しの譲二くんには、それくらいしてもらわないと」
 全面的に悪いのは俺だと自覚しているから、何も言い返せない。けれど、その代わりデザートは夢子だからな!
 ……とは、今の俺には言う権利無いか……はあ。


END